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全体と個人


 ■全体か個人か
 全体とは何か?たとえばあなたが日本人なら、日本人の中からノーベル賞受賞者が出たら喜ぶでしょう。ただし、その受賞とあなたは全く関わりがない。何一つ貢献していません。(ごく一部の人を除いて) わが国がロケット打ち上げに成功したら、あなたは喜ぶでしょうが、その成功にあなたはどれだけ貢献したのですか?同じ国の人間だからまったく関係がないとは言えないはず、と言ったら、世界のどこかの国のロケット開発も無関係とは言えませんね。あなたがロケットの部品の一部でも作っていたなら話は別ですが・・・(その部品は中国製かもしれない) 要するに自分と国を同一視しているだけです。本来は別のものを無理やり結びつけて関係を持たせているに過ぎないのです。あなたがあるサッカー選手のファンなら、その選手と自分を(勝手に)結び付けて、その選手が活躍したら自分も嬉しいのと同じです。
 世の中には一人ひとりの人間よりも全体が大事だという考え方の人がいます。単純に考えて、一人の人間の価値を1としたら、10人ならその10倍の10。100人になら100。1億人なら1億。単純に足していけばいいのです。だから数字的に言えば、個人一人を重んじるよりも、全体の合計数をいかに多くするかを問題にします。こういった考え方を功利主義といいます。
しかし一体”誰”にとって”数が増えること”の方がいいのでしょうか?それは「全体」にとってです。個人ではありません。しかも「全体」というものに主体はありません。ただ人間を単純に合計したものです。1億人いるなら、その身長を合計して約1億5千メートルにした。これが「全体」だと言っているのと同じです。
全体にとって良くても、あなたにとってはあなたがすべてです。全体のことなんか個人にとってはどうでもいいことなのです。主体性(自らの意志で行動する)を持っているものは、あくまであなたです。全体という存在はありません。
いや全体にも意志があると思い込んでいる人に質問です。「全体の意志」って何ですか?多数決ですか?
それはある時点の統計学上の傾向でしかないのです。そのようなものは年がら年中変化します。しかも世界中の人間から意見を聞くことなんか不可能です。アンケートはサンプルでしか集められません。サンプルのとり方によって数値なんかいくらでも変化します。そんなものを人類普遍の真理などと間違っても言えませんね。
要するに全体(国家、人類など)というものは意志を持たないのです。全体のため、国家のため、あるいは人類のためとか言う人がいますが、それって具体的には何のために、何をどうすることですか?どうなったらその効果があり、どうなったら効果なし。あるいはなぜそうすることが人間にとって必要なのですか?何のために??結局功利主義なんかまったく意味がないのです。全体のために個人は犠牲にならなければならない。みんなのために我慢しろ。こんな言い方に騙されるな!全体のため、組織のため、国家のため、人類のため、そんな言葉は、皆”言い訳”に聞こえる。一種の甘え無責任です。
一人の個人の死は、一億人の死と変わりません。あなたにとっては、無関係な一億人の死よりも、心から愛してやまない一人の人間の死の方が重いと思いますよ。あなたが人間ならね。あなたにとっては自分がすべてなのです。そして愛する一人の人のために死ねるのです。
 皆さんにお聞きします。
「人類は今から100年後に滅亡する」、「国家はあと50年後に崩壊するだろう」、「あなたの命は余命5ヶ月」
もしそう言われた場合、この三つの中で、あなたにとって一番衝撃的なのはどれですか?
もちろん最後の「余命5ヶ月」ですよね?当り前です。これに比べたらその他の事なんかどうでもいいように思います。
「いや人類の滅亡、国家の崩壊も大きな問題だ」それはそのときになったら大変なことになるでしょうが、もしその前にあなたが既に死んでいるのなら関係ないことです。あなたの子孫は大変かもしれないが。(青山にとっては100年先に生きているわけはないから、”人類滅亡”何てちっとも怖くない。)
「自分は死んでしまってもはや関係ないかもしれないが、子や孫のことを思えばそれは哀れだ。愛する子や孫のためにも、人類の滅亡や国家の崩壊は何が何でも食い止めなければならない」しかしその愛する子や孫であっても、(あなたより長生きするかもしれないが)遅かれ早かれいずれ必ず死ぬのです。あなたがいくら努力してもそれだけはどうにもならないことです。
人間は皆確実に死ぬのです。死んだ後のことを心配してもしょうがないでしょう。
あなたが医者だったとします。一人の患者を命に関わる病から救ったとします。しかしその患者もいずれ死ぬのです。あなたが自殺しようとしていた人間を止めたとします。あなたの説得によって自殺を思いとどまった。しかしそれでもその人間はいずれ(自殺じゃなくても)死ぬのです。今生まれた子供も遅かれ早かれいずれ死ぬ。人類の滅亡といっても一片に死ぬのか時間差をおいて死ぬのかその違いだけです。(補足1)
死ぬといっても時間差をおいて死ぬから、そのあいだに子供を作れる。だから個々の人間は死んでも人類という種は生き残ることができる。
その人類という種が生き残るということに何の意味があるのでしょうか?
何度も言っているとおり、それは自然淘汰の産物です。
あなたがもし「人類なんか滅んだっていいじゃないか」という話を聞いて、もし不快感を覚えるなら、それはあなたのDNAの中に「人類が滅んではいけない」という無意識の本能的性質が組み込まれている証拠です。その性質が組み込まれていたからこそ、あなたの先祖は生き残ってきたのです。あなたが今ここにいるのもそのためです。
しかしではなぜ人類が滅んではいけないのか?と問われたら「とにかく滅ぼしてはならない」という思い、感情があるだけで、このなぜ(という正当な理由)には答えられません。なぜなら、自然淘汰(生き残るために身に着けた性質)は意味がないからです。
あなたはただ意味もわからず「人類なんか滅んだっていいじゃいか」という話に対して、どうしてか抑えきれない嫌悪感を抱くのです。どこからともなくその感情が湧いてくるのです。これを「理由なき嫌悪感」と呼んでいます。
人類が生き残ろうが滅びようが、あるいは恐竜が生き残って人類が出現しなくても、また恐竜が滅んで人類が発生しても、宇宙にとってはどっちでもいいことなんです。
そうです。世界に方向性なんかないんです。この世界には意味も理由も目的もない。ただあるようにあるだけ、なるようになるだけ、それがこの世界の本質です。
逆に世界に目的がない、方向がない、意味がないからこそ、我々一人一人は何をしようが完全に自由なのです。したがって我々は誰であっても世界を思いのままに変えることができるのです。そんなことは無理でしょう?いいえ、必ずできます!あなたにその気があるならね。

■全体なんか関係なし
 国民を統一する必要はない。人間みな違うんだから、それを一つに束ねる必要なんかない。国家は家族ではありません。家族ですらみな(生き方も、考え方も)違うでしょう。
宗教だって統一なんか絶対不可能です。なぜなら拝んでいる神様がみな違うからです。人間の数だけ宗教があります。
一つに束ねて大きな事をする?大きな事って何?戦争ですか?他国を侵略して奪うこと?大勢でかかれば奪えるよ。ただし、奪ったものを大勢で分けないといけないからね。そのときまた喧嘩になるでしょう。今度は国内で争うことに。
前にも話したとおり、人々が協力し合って一つの事をする。その一つの事とは、助け合い(社会福祉)か平和の実現しかないのです。それ以外はすべて戦争になります。(補足2)

■個が大事、自分がすべて、あなたがすべて
 間違えないでください。全体は個人を合わせたものだから全体の方が大事?いいえ、あなたにとってはあなたが全てなはずです。個は全体の一部ではありません。ただし、あなたの権利を優遇するために、他の人間の権利を縮小することではありませんよ。(補足3) 個は自分一人ではない。他人、隣人を含めて、人間一人一人を指します。
つまり全体なんかどうでもいい。それは世界に意味も目的も方向性もないからです。個人が全体の犠牲になる必要はない。1億人のバカがいい気持ちになりたいがために、一人が犠牲になる。こんなバカバカしい話はありません。よく、国を守れとか主張する人たちがいますが、国の"何"を守るのですか?国家の体制(国というシステム)ですか?そのために国民一人ぐらいは犠牲になってもいいと?それとも守るべきは国民一人一人ですか?一人のホームレスも国民ですよ?そのために是非予算を投じてください。
全体のことなど、大多数の傾向など気にする必要はない。周りに合わせる必要、全体に合わせる必要もない。歩き方も、階段の上り方も、食事の仕方も、周りに合わせる必要なし。自分のやり方でやればいい。功利主義など無意味です。だいたい一人の人間が死ぬと、人類が亡びるのとどこが違うのか?
みんなで決めたことは守らなければならない。もちろん自分もそれに賛成したら守るのは当然。しかし全員が賛成する中で一人だけ反対するのも自由。反対したならそれを守る義務はない。「大多数で決めたことには従わなければならない」というのは間違った考え方です。
仮に功利主義に則り、多数決が何よりも優先される社会にあなたがいたとしましょう。するとあなたという人間を排除することが多数決によって決まるのです。あなたは生きる権利をはく奪されるでしょう。なぜか?あなたが存在していても社会の中では何の役にも立たない。それどころかあなたの存在が、他の人間にとっては明らかに害です。なぜなら地球に有限しか存在しない水を飲み、空気を吸い、食物を食べる。そうすることによって他の人間の取り分を奪っているのです。あなたと言う存在は社会に損失を産む。もちろんあなたの家族やごく親しい人たちにとって、あなたは有益です。しかしあなたが役に立っている人たちはわずかです。100人もいないでしょう。残りの70億人の人間とって、あなたは邪魔な存在なのです。否、私は社会の役に立っている。なんて言うのは単なるうぬぼれですよ。あなたが死んでもほとんどの人間は困りませんから。(要するに多数決よりも、個々人の生きる権利が優越する。それが近代社会の骨幹で、それを憲法で規定してこそ、近代国家と言えるのです。)
 つまりこうならなければならない理由はない。別に国家が崩壊してもいい。人類が滅亡してもいい。そうなってはいけない理由はありません。だからどんな犠牲も正当化されない。たとえばテロリストが立て籠もっている砦に攻撃を仕掛けようとする。その周辺には人々が暮らしている。ここで攻撃をすれば住民に被害が出るのは必至。それをわかっていながら攻撃した場合、その犠牲をやむを得ないとする理由がない。その悲劇の必然的存在理由がないのです。世界に目的がないからです。
もし今国家が崩壊したとします。だからって死ぬわけにはいかないでしょう。時代劇の侍のように「もはやこれまで!」と言って腹を切るのですか?全体は個によって成り立っています。国家がなくなっても人は生きてはいけます。ただ人がいなければ国家は成り立ちません。もちろん国家を故意に崩壊させる必要は全くありません。国家は必要です。何かと役に立ちます。否、無くては困ります。国家の崩壊は極力食い止めなければなりません。ただし、自分が死んでしまったら、元も子もありません。自分にとって自分自身が死ぬということは、宇宙が消滅するのとまったく同じことです。
あるいは突然あなた以外の人間がすべて死んだとします。世界に生き残っている人間はあなた一人。だからと言ってあなたも死ぬのですか?人間生きている限り、生きていくという選択しかありえないのです。
結局、政府や国家があなたに幸福を与えてくれるわけではないのです。幸福は自分で(自分の努力によって)掴むのです。国家がこの地獄のような現世を極楽浄土に変えてくれるのですか?生まれる前の状態にまで戻してくれるのですか?(これは仏教の「一切皆苦」、あるいは「生老病死」の教え。その話は次章で)
よくある話として、政府の役人や企業の幹部が何か不祥事を起こした時の言い訳、「組織のためにやりました」。個人のためにやった誤魔化しなら責められても、組織のためなら許されるのか?まったく子供の言い訳よりもひどい。組織なんかにしがみついているから精神的に弱くなる。組織なんか糞くらえだ!(青山的に見て、組織中にいる人間で尊敬に値する人は一人もいない。という感想です)
人間は誰しも(神様じゃないから)自分の幸福を第一に考えます。どんなに愛に満ちた人でも自分さえ幸福になれればそれで十分なのです。(補足5) (利他行為も自己犠牲も自分の幸福のため。自分よりも人のためという考え方は、幸福を単なる(物質的)利益と考えることによる誤解)。あなたも自分が第一。あなたは他人なんかに合わせられますか?人間は決して多数決などには従えない。あくまで自分は自分であり、(たとえ自分一人であっても)他人や(大多数の)周りに合わせることができない。他人の価値を押しつけられるのは死んでもご免。それが人間です。個が全体の趣味に合わせなければならない理由はあれません。
例えば、あなた一人がAを選択し、他のすべての人類がBを選択したからと言って、あなたが選択し直さなければならない義務はない。そのままAを選択し続けるのは、あなたの完全な自由。そのためにあなたが周りからどんな反発を招こうと、大勢に従う理由はないのです。(補足6)
社会では多数決が優先される。もし多数決で負けたなら、それに従わざるを得ない。なんて言うのは体制側の勝手な論理です。「みんなで決めたことは、みんなで従う」。もちろん自分も賛成したならそれに従わなければならない。しかし、みんなで決める=多数決ではない。もし、ある政策の是非を問うために1億人の有権者による多数決を行った。結果51パーセントが賛成。残りの49パーセントが反対。よって政策は可決されたとします。しかしその政策は反対した49パーセントの人間にとっては明らかに不利益。それも死活に関わるもの。つまり4900万人の人間が殺されるに等しいとしたら、例え多数決でも従えない。最後の一人になっても反対するのは当然のことです。そもそもこの政策そのものが不備です。要するに、例え一人でも不利になるような政策は、そのものが無効です。
それでもあなたが「全体の方が大事」だと思うのは自由です。それはあなたの好みの問題ですから。自分はミカンよりもリンゴが好きだと言っているのと同じです。そんなもの(個人よりも全体の方が大事だとする考え)を人類普遍の真理などとは言えませんね。もし言えるとしたら、ではなぜ「個人よりも全体の方が大事」なのかを、単なる好みではなく、明確な理由として提示してほしい。明確な理由などあるわけがありません。なぜなら、世界には目的がないから、こうならなければならない理由なんかないし、こうであってはいけない理由もない。ただあなたがこうしたい、ああしたいという個人的な希望を言っているに過ぎないのです。もしも世界に方向性があるなら、その方向とは何か?その必然的理由を説明してほしいと思います。
このたった一つの誤った思想、つまり世界には理由がある。目的がある。方向性がある。意味があるいう考え方。何かのために何かがあるという考え。その何かのためなら犠牲も正当化されるという思想。そのためなら何をしても許される。たとえ殺してもいい。という勝手な思い込み。この場合仕方がない。全体のためなら多少の犠牲はやむを得ない。こっちのためならこっちはどうでもいい。それはプライオリティーが低いから。(この世にプライオリティーなどありません。それは個人の趣味の問題です。青山に言わせれば、国家や人類なんかもどうでもいい) これらの考え方は、功利主義の思想を背景に、単に自分を正当化したい、納得させたいというだけの話です。それが、これまでいかにたくさんの犠牲を出してきたか。なぜこの思想が悪いのでしょうか?それはナチスドイツの思想、ヒトラー、親衛隊の思想と本質的には同じだからです。
すべての間違いはここにあったのです。そこにあるのはただ、この世界に理由があってほしい。この世界に意味があってほしいという願望があるだけです。願望があるからと言って世界がそうなっていなければならない理由はないでしょう。要するにすべては本能から来る欲望があるだけです。あなたが食べたい、飲みたいといっているのと同じです。
なぜそんな欲望があなたに備わっているのでしょうか?
答えは、自然淘汰です。そういう欲望があったからこそ人間という種が存続してきたのです。しかし人類という種が存続しなければならない必然的理由は宇宙にはありません。すなわち個人よりも全体の方が大事だとする理由なんかどこにもないんです。あるのはただ自然淘汰に培われた欲望だけ。そしてその自然淘汰自身に意味がない。生き残ろうが滅びようが関係ありません。そこには滅びたくはないという理由なき願望があるだけです。(補足7)
人間はあくまで自分の意志に従い、本能に従うのではない。なぜなら本能は外部(客体)のもの、本来の自分ではないからです。(この話は次章で)
ここで言わんとすることは、全体、社会、国家、世界、あるいは人類、それよりも主体としての存在である自分が大切であるということです。なぜなら自分がいなければ何も始まりませんから。何もできませんから。幸福になりたいのはあくまで自分。あなたにとってはあなたがすべてなのです。次の章では、最後の課題として自分自身が、あなた自身が、どうすればその幸福になれるのか?その前に本当の幸福とは何か?それを追求していきます。
全体よりも個人が大事。一人一人の人間の命が大切なのです。あなたの命は何ものにも代えがたいほど尊いのです。個が全体の犠牲にならなければならない理由はないのです。全体が大事だとする考え方は間違っています。それはあくまで個人の趣味の問題。主体は一人ひとりの人間にあります。任意の一人の人間の命は、地球よりも重い。どんなエリートでも、世界的な有名人でも、あるいは王侯貴族でも、名もなき庶民の一人とその人間的価値は同じです。
ただし、間違っても誤解してほしくないこと。個が大事と言っても、個の”利益”が大事という訳ではありません。個人の利益、要するに金儲け、そんなことはどうでもいいのです。
この全体よりも個人一人一人の人間が大事という考え方は、釈迦やイエスなどの賢者は当然分かっていることでしょう。
「あなたがたの中に100匹の羊を飼う人がいて、その内の1匹がいなくなったら、残りの99匹を野原に残し、その1匹が見つかるまで探し回らないだろうか?そしてもし見つかったら、大喜びでその羊を家まで担いで帰り、村人たちを集めて「いなくなった羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。このように一人の罪人が悔い改めるということは、悔い改める必要のない99人の人間よりも大きな喜びが天にある。」(ルカによる福音書)

(補足1) イエスは奇跡を起こされた。イエスが呼びかけると死んだはずのラザロが墓から出てきたのである。人々は驚嘆した。(「ヨハネによる福音書」) その後ラザロはどうなったのでしょうか?ラザロは死んだのです。もしそうでなければ今もこの地球で生きているはずです。ラザロはイエスによって、少し寿命を延ばしてもらっただけです。寿命がわずかに長くなったことに意味などあるでしょうか?人はいずれ死ぬのです。
今生まれた子供もいつか必ず死ぬのです。そして今後未来生まれる子供もいずれ必ず死を迎えます。現代の高度な医療によって失われる命を救ったとしても、その救われた者も永遠に生きることはできません。それなのになぜ命を救うのでしょう。人を救うというのはただ命を延ばすことではない。それは究極的にはその救った者にこの宇宙の真理を悟らせることが目的です。(その話は今後)

(補足2) 人と人は皆顔が異なります。なぜでしょう?つまり他人だからです。では、他人同士は解り合えることができないのでしょうか?いいえ、同じ宇宙に存在している友人同士です。解り合えるかもしれません。あなたが情熱と愛情を持って語れば、心を通じ合わせることもできるかもしれない。それはあなたの努力の結果でしょうか?いいえ、相手があなたに応えてくれたのです。
 この大勢のそれぞれ異なった人間から構成されている社会においては、自分一人ではできない大きなことをする上で、他者の協力を求めることはごく自然です。その際十分に相手のメリットも説くことです。ただいくら熱意を持って説得しても聞き入れられないこともあるでしょう。なぜなら相手は他人ですから。もしあなたが友人から何かしらの協力を求められたらどうしますか?その思想、趣旨に共感したなら協力してもいいでしょう。その際相手が求めるのは資金援助。ただしあなたにはその資金がありません。否、お金じゃなくても協力できることはあるはずです。心からその趣旨に賛同したなら、身を惜しまず協力すべきです。それが相手の喜びであり、自分の喜びでもあります。ただし、もし共感できないなら、無理に協力する必要はない。あなたと友人は他人です。分かり合えないこともあるはずです。

(補足3) 個人よりも全体、社会や国家、あるいは人類を重要視するという考え方がなぜ生まれるのか?それは我々が動物(哺乳類)だからです。個よりも全体を重んじる本能的性質があったからこそ、人類という種は生き残ってきたに過ぎない。つまり自然淘汰の産物です。全体に対する自己犠牲と言うのはこんな浅ましい?動物的本能から生まれたものだったのです。全体が生き残って何の意味があるんですか?個々は例外なく死ぬのに。
このように全体を重んじる考え方を功利主義と言います。国王や国のカリスマ的指導者の命を(一般庶民よりも)重んじることは、これらの者に何か危機的状況(死亡等)があったら、多数の国民に(生活、その他精神面でも)多大な影響を及ぼすからです。これも結局は功利主義的な考え方なのです。つまり最大多数の人間(国民)を生き残らせることが、種(国家)の存続として有利だからです。
功利主義の極みは、国家が一つの企業と化すこと。すなわち共産主義です。国民に自由はなく、結局国家の奴隷です。(補足4)

(補足4) 個々人よりも全体を重んじる。それを仕事としている者たちがいます。それは行政府の長、即ち大統領や首相です。彼らは国全体のことを考えないといけません。(それがどれほど社会的影響力がある人間であっても)個々の人間の利害を一々考慮することは、国家あるいは法律を裏切ることに等しい。それでは全体が危機に陥るでしょう。国全体のことを考えて行動する。それが彼ら大統領などの使命です。ただし、彼らは法に従い職務を果たしているに過ぎません。すなわちその人物にしかできないことではないのです。つまり職務を果たせなければいつでも交代させられるのです。

(補足5) 「自分さえよければいい」というのと、「自分たちさえよければいい」とでは、どちらが増しか?「自分さえよければいい」というのは悪くない。人間だから仕方がないのです。それに対して「自分たちさえよければいい」の「たち」は余計。敵と味方を区別して、自分の仲間だけを重視する。利他精神のようで実は利己主義。”たち”を付けない方が遥かに増し。

(補足6) 大衆一人一人は、大勢に逆らっても自分の主張を押し通す者は少ない。何事も周りに同調する。自由だと言われながら、「私はこう思う」と他に賛同しない人間は、「では勝手にどうぞ」と、周りから突き放される(見放される)のを、何よりも恐れる。

(補足7) 国家を憂えるのも、人類の存続を願うのも、動物としての本能から来る食べたい飲みたいという欲と同じ。それは生存のため、すなわち自然淘汰から来る欲望に過ぎないのです。なぜなら、どうして人類が存続しなければならないのかと問われた時に、答えられないのがその理由です。だからといってそういう欲望を抱いてはいけないとは言えません。

結論:全体のために”個”があるのではない。全体を重んじる性質は生物学的な要因。すなわち自然淘汰によって培われた種が生き残るための本能です。我々は犬や猫ではありません。個人の主体を確立してこそ人間です。
つまり、一人の人間にとって、社会の安定よりも、国家の維持よりも、世界の平和よりも、人類の存続よりも、もっともっと大切なものがあります。(補足8)
それが何であるのか?すべての答えは次章にあります。

(補足8) もしも人間が、他の生物と同じく、目指すところは「人類という”種”の存続」、それを至上の目的とするならば、以下の通り政策を実行すべきである。
1.地球に広がった人間すべてを一つの目的(人類の存続)に則り管理するために、世界で一つの統一政府(NewWorldOrder)を設立し、民衆を支配する。
2.統一政府は、地上で最大限の権力を行使して、民衆を従わせ、もしも従わない者が生まれたら、いかなる手段を用いても排除することを使命とする。
3.統一政府は民衆を選別して、少数の優秀で善良な者たちと多数の劣悪な者たちとに分離する。二者は互いに争いを生むことから、前者の系統は維持し(子孫を存続させ)、後者の系統は(前者の存続の障害となるため)断絶させる。それにより全人類の人口増加の抑制を図る。
4.生存を許された系統の子孫には、特別に高度な教育を施し、協調しながら当該の目的(人類という種の存続)を達成するために寄与する。
以上が、人類存続のための人間選別を合理化させる思想である。
この人間選別の計画が頓挫するのは明確です。まず、世界統一政府は存続できません。(「世界平和論」の「世界統治システム」を参照)。そして、生き残りを許された全ての「優秀で善良な人間」の遺伝子の中にも、暴力的で野蛮でまた相手に策略をかけて倒そうとする闘争的性質を有している。即ち少数派内での争いは永遠に絶えない。そして何よりも、生き残ること、人類を存続せること自体に意味などないのです。一人一人の人間はいずれ死にます。人間は例外なく、生きているときに何を成し遂げても、自分の死とともに全ては無になるのです。この人類存続が無意味ということが分からないのは、未だに犬や猫のように本能に支配されて生きている証拠です。なぜ無意味だと言えるのか?それは生物というものがどのように進化を遂げてきたか。あるいは人間がなぜ未だに動物としての本能的性質を有しているのか。それが分かれば自ずと理解できることだと思います。そして何より、この世は”空”(後述)、つまり世界には意味も目的も方向性もないということです。

最後に
 全体なんかどうでもいいのです。一人一人の人間が大切なのです。だってあなたもその一人ですから。全体のためにあなたがいるわけではありません。あなたにとってはあなたが全てです。あなたは宇宙でたった一つの存在です。だから尊いのです。もちろんあなた以外のすべての人間も尊いのです。
ただし、一人一人の人間にそれぞれ価値があるわけではありません。勘違いしてほしくないことは、世の中には価値のある人間と価値のない人間の二通りがいる。それは明らかに間違いです。この人は素晴らしい。こいつは駄目。それはあくまであなたの主観です。つまり個人の好き嫌いの問題なのです。
この宇宙にとって価値がある人間なんか一人もいません。ある一人の人物に限ってはいてもいなくてもいいのです。後々話しますが、世界は「空」(実体がない)だからです。そもそも人間一人一人の価値なんてないのです。いや、人類全体、あるいは生物全般、宇宙全体の価値なんてものもありません。

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