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世界平和論


 さて、真に世界平和を実現することは可能でしょうか?もし本気で世界平和を実現するには、現在の国連(国際連合)にもっと強権的な権限を与えて、国際戦争および地域紛争を力を持って鎮圧する。各国政府は有無を言わさずそれに従う。それによって全世界の治安維持と安全保障を推進する。という段階まで持っていくしかないというわけです。しかし今の国連にそんな強大な力を持った組織になることが、果たして可能でしょうか?

■世界統治システム
 皆さんは、NewWorldOrderという言葉を知っていますか?「新世界秩序」と訳します。陰謀論によく登場しますが、陰謀ではありません。実際の政治体制の一つの考え方です。もしこのような世界政府ができたら、世界の平和は現実のものとなる。そう期待している方もいるかも知れません。その意味はこうです。
これまでの人類の歴史は戦争に明け暮れ、大量の人間が殺された暗い過去の上に綴られている。その争いの歴史に終止符を打ち、人類が欲してやまない恒久的な平和世界をこの地球上に実現するためには、世界を統一して国々を解体し、全てをたった一つの国家のもとに集め、人々がたった一つの政府を支持する。すなわち世界国家の誕生。これこそが人類普遍の願いである。すなわち古代から続くこれまでの歴史(国家の出現、国連やEUの誕生)から見ても世界国家の出現は必然的な成り行きあろう。
しかしそんな世界国家などが実現可能でしょうか?以下、それが原理的に不可能なことを説明します。
果たしてたった一人の人間が全世界を支配することなど可能でしょうか?
世界のありとあらゆる富がその一人の人間に集中しているなら可能。なぜなら他の人間には手にする富がない。だから何もできない。
しかしそんなことがあり得るでしょうか?
この世界にたった一人の人間しか存在しないならあり得る。
しかし、現実には他にも大勢の人間がいて生存しています。生存しているからには、たとえわずかであっても富を手にしているはずです。したがってたった一人の人間が全世界を支配することは不可能。
ただし、これが複数のエリートと呼ばれる人間の集団ならどうでしょうか?集団は全世界のありとあらゆる富を手に入れることにより、逆らう者を許さない強大な権力を手にする。反乱を企てる者を瞬時に察知し、たちまち破壊してしまう。エリート集団から外れた者は、この権力に屈するか、その管理の下動物的に生きる以外に道はないのです。
しかし、トップ集団が複数の人間で構成されている以上、当然集団内で意見の相違がある。その相違が対立を生む。その争いは力(富)がある方が勝つ。負けた者は退くしかない。
ただし、勝った方も一人ではない。今度は勝った者同士に新たな対立が生じる。そしていずれかがまた勝つ。再び勝った者同士が争う。そうして永遠に決着はつかない。富を手にしたエリートたちは、ライバルとの争いに追われ、世界を完全支配することができない。(補足1)
したがって「新世界秩序」など幻想に過ぎない。というわけです。(補足2)
結局新世界秩序は、世界を管理支配したいという生物学的な要請からくる自然淘汰の産物に過ぎないのです。集団を構成しているのは、知的エリートなどといわれていますが、ナチ親衛隊の思想(注)と同レベルの人類(ホモ=サピエンス)という生物の一つの種を残したいという本能に操られた獣と同じです。我々人類は蟻の社会ですら完全管理は不可能であることを知るべきでしょう。

結論:世界を統一して、力によって全世界を管理することは不可能。国連は現在のような融和団体であるべきであり、その上で平和を実現するためには、力以外のものによって達成する努力を今後も続けていく必要あり、その営みは未来永劫続けていかなければならない。ということです。

(注) 親衛隊の思想は優生学といわれています。人間には優秀なものと劣悪なものがいて、劣悪なものが優秀なものの生存を脅かすものなら、劣勢なものをこの地上から抹殺しても構わない。という歪んだ考え方です。
この思想がユダヤ人大量虐殺の根底にあったことはいうまでもありません。つまり新世界秩序という思想は、単純に世界の平和と人類の幸福といえば、抽象的なファンタジーになり、力による軍事独裁システムといえばナチス(大量虐殺)の思想になるのです。

■平和とは
 そもそも平和ってなんでしょうか?とっても大事な問題のはずなのによくわからない。平和が何なのかわからないのに平和を実現できるはずがありません。そして平和って本当に必要でしょうか?
みなさんは「平和」とは一体何か、考えたことがありますか?
世間には人類の平和とか、世界平和とか謳っている団体(宗教団体も含めて)があるけれど、「平和とは何か」解って言っているんでしょうか?ね。
定義:「平和」とは人間同士が相争わない状態をいう。
人間に限定していますが、平和とは一つの現実の状態を指すのです。状態とは目で観察し、(今平和な状態か、そうでないかを)判定できることを意味します。
二人の人間がいたとして、その二人がまったく無関係(作用を及ぼしあっていない状態)なら、当然争いもないから、今は平和な状態と言えます。
これが関係を持つと危ない。人間はみな顔が違うように、誰であっても異なっています。一つのことに対する意見の相違もあるでしょう。すると二人が自分の意見を通そうとして、そこにどうしても争いが生じます。ここで平和を実現する方法が一つわかりました。
人は関りを持つから争うのです。だからお互い関わらなければいい。
そんなことは無理だと決め付けている人がいますが、ある程度可能です。相手を避けることです。近づいてきたら逃げればいいのです。それよりもできる限り離れて暮らすのです。
完全に関わらないことはできなくても、これである程度は争いを避けることができます。少なくとも積極的に人と関わることだけはやめるべきでしょう。
ただし、どうしても関わらないでは済まされない状況が生じます。関わらなければいいといったって家族とも関わらないの?家族でも争いは生じます。殺し合いになることもありますよね。(補足3)
答え:そのときは戦うのです。
人生にはやむを得ず戦わなければならないこともあるのです。戦うべきときは戦えばいいのです。しかも、相手の力がどれだけ強大であっても。
しかし何のために戦うのでしょうか?相手に勝ちたいから?そんなことのために戦うのですか?相手に勝ったからと言ってそれに何の意味があるんですか?勝たなければならない理由なんてどこにもない。相手よりも優位になりたいから?それは人間の求めるものではありません。勝ちたいというのはただの本能です。動物的な本能です。けだものと同じです。その本能に使役され相手と戦って勝ったとしてもそこに何の価値もない。ただ空しいだけです。これは人間の戦いではありません。獣の戦いです。では、いったい人間は何のために戦うのでしょうか?

 もしあなたが敵国からの理不尽な攻撃のために、何の罪もない家族を皆殺しにされたら、きっとあなたは相手を殺してやりたいほど憎むであろう。その怒りの気持ちを絶対に忘れてはならない。何年も、何十年も、いや生涯。愛すべき者を無残に殺した憎っくき奴らに復讐を遂げるまで。敵国の人間に、自分が味わった苦しみ、悲しみと同じものを味あわせるために。
もしかしたら何十年後かに敵国と国とが和解をするかも知れない。あなたの国の代表が相手国と握手を交わし「平和が訪れた」と微笑みながら言うのを聞くであろう。しかしそれであなたの怒りが静まるわけではないのだ。復讐を誓ったあなたはこんな偽りの平和に騙されてはならない。30年、40年、50年経とうが、あるいは他の者たちが復讐を忘れたとしても、あなたはその憎い気持ちを決して偽ってはならない。憎ければ本当に憎ければ、殺せばいい。相手ももう忘れているかもしれないが、永遠に忘れられないあなたは、いつか復讐すればいいのだ。平和など所詮誤魔化しに過ぎない。
ただし、あなたは決して天国などには行けない。神の道に死んだ者は天国へ行くことはない。なぜなら神は存在しないからである。あなたの行為を正当化するものは何もない。宗教は甘えたい人間の一種の言い訳に過ぎないのである。
あなたの行先は地獄である。そしてあなたの子供たちには、あなたと同じ道を歩ませることはできない。
しかし地獄へ落ちようとも、神に逆らおうとも、憎い気持ちが収まらないなら、殺せばいい。それを止める者などいない。
ただその時もし、あなたに地獄へ行く覚悟がないなら、あなたが地獄へ行くことを恐れるほどの腰抜けなら、神を殺すくらいの気概すらないなら、復讐などはやめるべきである。人を憎むのはやめるべきである。

(補足1) エリート同士の争いに勝ち、次に行われるのは勝者同士の激しい憎しみ合い。この時点で勝者の一部がかつて戦った敗者と(一時的に)手を組むこともあり得ます。保守同士の争いに勝つため、保守の一部が革新勢力と手を組むなど、あるいはその逆。保守の論客が急に立場を変えたから、今までの思想を捨てたのかというと、そうではありません。ただライバルを倒したいがための一時的なパフォーマンスです。それに騙されてはいけません。もともと保守や革新というけれど、彼らに(深い)思想などない。上っ面だけです。

(補足2) 未だに世界は争いを続け、テロリストは消滅しない。それは一つに集中した世界統治機構(NewWorldOrder)など存在しない証拠です。トップ同士でも2派以上に分裂し、ライバルに倒すためにテロリストとも手を組む。それによって世界に混乱を起こすのです。

(補足3) 人は皆(親子兄弟であっても)顔が違うように、考え方も生き方も異なります。意見の相違があります。家庭の中においても欲しい富は限られています。無尽蔵にあるわけがありません。そのわずかな富を巡って争いが生じます。例え家族でも憎しみ合う関係が生まれるのです。その家族同士が仲良くする場合が一つだけ考えられます。それは隣の家から攻撃をされたときです。隣から富を奪おうと押しかけられたら、家族は一致団結して戦うでしょう。団結しなければ負けてしまうからです。しかし隣家を追い払って家庭に平和が戻った途端、今度はまた家族内で争いが生じるのです。
国家も同様です。隣の国から責められれば国民は一致団結するでしょう。しかし平和が戻れば、今度は国内での争いが生じるのです。国をまとめるのは外に敵を作ること。為政者どもは、そのためにやたらと隣国の脅威を国民に訴えて、戦いをあおろうとするのです。それはいつの時代もそうです。

 もはや敵も味方もない。自分以外はすべて敵だと思えばいいのです。同じ国の国民であろうが、会社の同僚だろうが、家族であっても、みな自分から利益を奪い取る(自分が呼吸する上で、その酸素を奪う隣人と言う意味で)敵なのです。しかし敵だからこそ愛せよ。(この話は最終章で)

この平和と戦いの問題は、これからも考えていこうと思います。

 最後に。
生まれてから今日まで平和な地域で暮らしてきて、戦争(地域紛争、テロを含む)の実感が持てない。あるいは世界のどこかで戦争が行われていることは知っていても、単にテレビやインターネットのニュースなどで知るだけで、自分とは無縁の事だと思っている。そういう平和を当り前だと思っている人こそ、戦争が如何に悲惨で、愚かの極みか、もっともっと世界の状況を知ってほしいと思います。
いかなる理由があるにしろ、戦争だけは絶対に反対しなければならないのです。
平和な地域においても、そう昔ではない過去に悲惨な戦争の歴史があります。その過去を自分のこととして知る。
戦争の犠牲者はいつの時代もどこの地域でも、子供、年寄り、女性、障害者です。戦争は弱い者ほど犠牲を強いられる。悲惨な状況は弱い者、弱い者にこそ現れる。強い者は弱い者から搾取する。弱い者は逃げることすら出来ない。この悲惨さ、この絶望的な状況こそしっかりと見てほしい。目を背けたくなるような惨状こそ、嫌だ、もうたくさんだというほど見てほしい。と思います。(補足3)

 なぜ人間は争うのでしょうか?はっきり言えばそれは単なる生物として生き残るための本能に過ぎない。しかし人間はどんなに戦いに長けている人でも、誰一人として例外なく生き残れない。つまり死ぬのです。個人は死んでも人類という種は生き残る?
そこに何の意味があるのでしょうか?地球上に人類が存続しなければならない理由はない。地球にとって、人類が生き残ろうが滅亡しようが、そんなことはどうでもいいこと。どうでも良くないと思っているのは、人間だけです。(および動物園のサルだけ。餌がもらえなくなるから) そう思っている人間もいずれ死ぬのです。自分が死んだ後子孫がどうなろうと、死んだ者にはもはや何も出来ません。
それはすべて自然淘汰の産物です。そして自然淘汰自体意味はない。
結局相手に勝利する、人に勝つことが如何に下らなく愚かなことかを知るべきです。たとえばスポーツの試合でも、あるいは将棋の対局でも、勝ちたいという思い、相手より優位になりたいという欲望がどれだけ浅ましいことかを知るべきです。
勘違いしてはいけないこと。戦いに正当な戦い。不当な戦い。などの区別はありません。戦いはみな不当なのです。正々堂々も卑怯もない。戦いをすること自体がすでに正々堂々ではないのです。
戦いにルールなどない。戦争にルールなどありません。あると思っているのは単なる思い込みです。「それは卑怯だ」というのはあなただけの思い込みです。相手には通用しません。
もし敵を倒そうとするならば、青山ならまず相手の家族、特に子供から攻撃します。一番弱いところから破壊して、少しづつ敵を消耗させていく。これが青山の戦いのやり方です。それを卑怯だ、ルール違反だといわれても関係ありません。青山には青山のルールがあるのです。それがあなたのルールとは異なるかもしれませんが。戦争に家族を攻撃してはならないなんてルールはありません。勝てばいいのです。勝つということは、敵を殺戮することです。そのためには何でもする。それが戦争であり、本当の戦いなんです。
お互い同じルールで競い合うのは、戦いではなくゲームです。それはお互いが楽しむためのものです。スポーツ競技は単なる遊び、それ以上でもそれ以下でもありません。(生活がかかっているプロスポーツは違いますが)
本来戦いにルールなどない。ただ相手を殺すことにある。おわかりですか?その戦争の根底に、人間の生物としての本能、相手に勝ちたいという欲があるのです。
どんな些細な争いでも、あるいは学校のテストや運動会でも、相手に勝つこと。その延長線にあるのが戦争です。
競争する。相手に勝つことが如何に愚かか。獣ならいざ知らず、我々人間がこんな浅ましい状況でいいのでしょうか?
この競争の話は次章でまた述べたいと思います。

(補足3) 科学の基本は現実を直視することです。それなくして何万年も続いてきたこの(争いの)現状を変えることは出来ません。

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