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宗教の実態


 以前もお話した通り、この「科学概論」のテーマである「科学」とは正反対のものが「宗教」です。
青山は特に「宗教」を嫌っているわけではありません。次の章では「宗教」の話もたくさん出てきます。特に仏教について。
宗教は人々に心の安らぎを与えます。それどころか宗教には人間の歴史そのものといっていい広大かつ深遠な哲学があります。「宗教」こそは「科学」と並ぶ人類最高の宝といっても過言ではありません。
ただし、今の時代、宗教は混同され、誤解され、宝どころか、悪そのものになっています。それは人々が正しく宗教を捉えていないことが原因と考えられます。その大きな要因の一つが科学と宗教の決定的な違いを理解していないことだと考えています。宗教を正しく理解していない者は科学についてもわからない。科学を理解できない者は、宗教を必ず誤解している。
思い切って言いますが、宗教と科学はまったく違うものだといえます。その違いが明確に解らない人は、宗教も科学も語る資格はないというのが青山の個人的意見です。
宗教はあくまで個人の心の問題です。個人の問題に留めておけば問題など起こりません。個人の問題なら科学的根拠を得る必要もありません。悪しき始まりは、宗教が個人を超えて他人に波及する。科学的根拠がないにもかかわらず人に(半ば強制的に)勧めようとすること。それを皮切りにやがて社会全体に浸透を始める。そして人々を洗脳し、扇動して、結果戦争などを引き起こす。人類最大の悲劇をもたらすもの。これが宗教です。宗教が権力を持てばそれは人類の破滅を意味します。人類が辿ってきた悲劇の歴史、その元凶はまさに宗教です。宗教があったからこそ悲劇が生まれた。憎っくき宗教!青山はいかなる宗教も許さない!青山の使命は、この地上において一切の宗教をたたき潰すことにある!宗教が存在している限り人類が幸福を手にすることはない。と断言します。
ただし、社会性がある宗教でも何から何まで悪いとは言い切れませんね。中には本当に人々に救いをもたらすものもあるでしょう。
そのためにはまずインチキ宗教、ペテン宗教、詐欺宗教、犯罪宗教、暴力宗教、そして悪魔崇拝について、その見分け方を青山の私論を交えながら語っていきたいと思います。

■インチキ宗教(ペテン宗教、詐欺宗教、犯罪宗教、暴力宗教を含む)の特徴
1.根拠を示さずに自分が信じていることを他人にも信じ込ませようとする。
神の存在、死後の世界、過去の宿業、前世の因縁などを持ち出す。(自分一人が信じる分には問題ないが)
信じてもらいたかったら、まず相手が納得する根拠を提示せよ。その前に、自分の頭は正常か今一度疑ってみよ。と言いたくなりますね。(補足1)
ただし布教は自由です。自分が今まで経験(信仰)してきたことは本当にすばらしい。そのすばらしさを人にも味わせてあげたい。だから勧める。それはごく自然のことです。宗教は相手が納得するだけの(論理的な)根拠を示すことはなかなかできません。それは宗教という性質上無理なのです。だからといって人に勧めてはいけない理由はない。本気で人のことを思うからこそ、ぜひ相手にも幸せになってもらいたい。それは自然な思いです。
ただし、相手がこの宗教を信じても、あなたと同じように幸福を感じる、あるいはこの宗教をすばらしいと思う保証はない。だから、「わたしはこの宗教を信じてこんなに幸福になった。あなたも幸福になれる”可能性”もあるため、やってみてはいかがでしょうか?もちろん無理には勧めませんが」といっておけば問題はない。幸福にならない可能性もあるということを相手に知らせた上での布教ですから。
つまり相手が半信半疑でも勧めてみる価値はありそうです。それでもし相手が幸せを感じてくれたら最高です。
ただし、相手から「ノー」といわれたらそれ以上執こく勧めたりはせず、黙って引き下がること。たとえ今まで1万人に勧めて、1万人全員が幸福を感じたとしても、この人も同じように感じる保障はありませんから。
相手が拒否しているにもかかわらず執拗に、あるいは脅し文句を使って(信じないと地獄へ落ちるぞ)、無理やり勧誘しようとする輩がいたら、即警察に通報しましょう。
2.金品を要求する。幸せになれた(昇進した。宝くじが当たった。いい人と結婚できた)のは信仰のお陰。ありがたいと思うなら、お布施を出しなさい。
これを持っていれば事故にあわない。お守り、壷などを買わせる。
桁違いの浄財(上納金)の要求。100万円、1000万円。今ここで上納しておけば後で倍になって返ってくると、なけなしの金を出すよう要求。まさに貧乏人から搾取する悪魔です。
もはや説明不要。即警察に通報しましょう。以下もみなそうです。即警察へ。
3.人の不幸につけ込む。不幸なのは、この信心をしない精。勧誘を断った精。信心をやめた精、脱会しようとした精。災難にあったのは、間違った宗教を信じているため。周りの精ではなく、自分の行いに問題がある。という嘘をつく。
4.人の弱みにつけ込んだ勧誘。相手の立場が弱いのをいいことに強引な勧誘。金に困っている人を助ける振りをして、あるいは恩を傘に着せた行為。
5.不安につけ込む。何か病気になるんではないか、事故に遭うんじゃないか、会社の経営が心配、子供の不良化、信心をするしないに関わらず人間には必ず不安というものがあるのです。それにだまされてはいけません。気を強く持ちましょう。
6.人を脅す。戒律を破ると地獄へ落ちる。教団批判、本尊や教祖に対する非礼、疑いを持つ、脱会等をすれば罰が当たる。勧誘を断ると、事故にあう。癌になる。会社が倒産する。子供が不良になる。等々。
人間という動物は誰であっても心が弱い。今生活的には困っていなくても心の隅にある不安はぬぐえない。その不安に付け込むのがインチキ宗教。教団に疑いを挟めば、罰(バチ)が当たるんじゃないかという恐れ。断言して言えます。たとえこの後あなたが何か災難に見舞われても、それと信心とは一切関係ございません。

■宗教の勧誘 こういう宗教は要注意
 宗教団体がみな悪とは限りません。勧誘の仕方がみな犯罪とはいえませんが、用心したほうがいい留意点についてまとめました。
1.とにかく人を引き入れたいがために。
無知な一般人「こんな宗教に入ったからといって、わたしの病気が治るわけじゃない。」
宗教セールスマン「そんなこと、やってみなくちゃわからないじゃないか!とにかく一ヶ月でもいいからやってみろ。」(補足2)
そういってやらせる。これはセールスでの「一ヶ月のお試し期間」と同じです。一ヶ月経っても満足しない場合は、返品してもかまわない。大部分は返品、ただ何人かの人は買ってくれる。それでも採算が取れる。
病気の場合一ヶ月も経てば症状は変わる。状態が良い方に向かうか、悪い方に向かうかは、確率的には半々。
悪い方に向かった場合「全然(信心の)効果ないじゃないか!この嘘つき!」と怒鳴られておしまい。セールスマンはそんなことは気にしない。
良い方に向かった人に対しては、「ほら、効果が出たでしょ。わたしの言うことに嘘はなかったね。さあ、会員になりましょう。」
これで誘った人間の半数は会員になるでしょう。
こんな下らないからくりに多くの人はだまされる。第一信心したことと病気が快方に向かったことには何の関係もない。
同じことは、「ピンクの靴下」?でもいけます。「あなたは明日から毎日ピンクの靴下を履きましょう。一ヶ月後に病気は快方に向かいます。」
これで、全人類の半数は信者にできますよ。
もし必ずそれ(信心したこと)が快方に向かったことの原因なら、快方に向かわなかった人(全人口の半数)はどういうわけだ?(補足3)
2.自分を信じているからこそこれからも疑い続けてみては。
よく宗教の冊子などに信者の信仰体験があり、最初はまったく信じられなかった。疑っていた。激しく批判していた人の話。
「それが先輩信者さんの熱心な説得により、時間はかかりましたが疑いが解けたのです。あれだけ疑っていたにも関わらず、きれいに何もかも疑問が晴れました。今すっきりした気分です。最初の頃は、わたしを幸せにしたいという信者さんの心遣いもわからず、ひどい言葉でずいぶん罵倒しました。今では深く反省しております。そんな私に対して信者さんは決して見捨てたりせず常に暖かく見守ってくださいました。本当に感謝しております。」
今では役職をこなす模範的な信者になっているという話です。(補足4)
長い間疑ってきたのなら、これからも疑ったらどうですか?確かにこれまでに抱いていた疑いは解決しましたが、信仰していくうちにまた新たな疑いが出てくるのは当然。(それは細かいものかもしれないが) その新しい疑問についても、遠慮なくたずねたらどうでしょう。疑いはなくなることはないと思いますよ。人間ですからね。
問題なのは大きな疑いが晴れたら、もうそれ以上疑わなくなることです。
もうそうなったら思考停止の狂信。最初からそこそこ信じていた場合よりも始末が悪い。弱い信は覚醒が早い。強い疑いは、一瞬で強い信に変わる。すると覚醒が困難に。
3.組織が強固(上意下達のピラミッド式)で役職がやたらに多い。その役職に就く条件は年齢や経験に因らず、勧誘した信者の数によって決まる。信者たち(特に若者)は少しでも高い役職に就きたいがために、信者獲得数で他の者と競争をする。まるで売り上げ成績を競う営業マンそのもの。信者たちは一人でも多く勧誘しようと必死。そしてライバルに勝ってより高い役職に就いた者は、愚かな優越感に浸るのである。
4.お金を出せば幸せになれる。功徳がある。来世は幸せになれる。そう言って信者をだまして金を巻き上げる。信者はだまされていることに気づかない。

■宗教組織 あなたが今会員になっている宗教がこんな感じなら、脱会されることをお勧めします。
1.組織は上意下達、教祖は絶対。だれも教祖に物が言えない。教祖崇拝は異常なほど。
2.組織には、会員に対する、浄財のノルマ、勧誘のノルマあり。
3.憲法で保障されている信教の自由に反して、辞められない。引き止められる。辞めるための手続きが(わざと)面倒。大体宗教には棄教の概念がない。
4.子供だましの幼稚な教義。表面上は偉大な教え、深遠な哲学。実態はたんなるご利益宗教。
5.非科学的な教え。オカルト信仰、呪文、祈祷、UFO、宇宙人、前世療法等。
6.マインドコントロール。洗脳さているような信者。(本人は気づいていない)目が輝いている。やたら表情が明るい。傍から見ると不気味そのもの。
7.人を見下す心根。自分たちは宇宙の真理を悟っているという自負。勧誘するのも凡夫に対する慈悲。だと思っている。自分の奢りに気づかない。
8.違法行為を平気で行う。薬物による幻覚、危険な思想(敵対勢力は殺してもいい)の浸透。
9.執こい勧誘。強圧的な勧誘 時には暴力沙汰も。背後に政治団体や暴力組織が控えている?
10.一般信者の無知、教祖を世界的指導者、または救世主だと思い込む。周りが見えない。自分で思考しない。一方的で短絡的で偏った考え方。
11.精神病的な行い 神のお告げ、霊の声が聞こえる。死者が見える。
以上について、あなたなりに、危険度、犯罪度をチェックしてみては?ただし上記はあくまで主観的な判定です。客観的な判定などできません。あくまで評価者であるあなたがそう思ったらそうです。思わなかったらそれでおしまい。

■カルト宗教 何を信じていても本来は自由ですが、以下のものについては宗教の域を超えた犯罪です。社会の迷惑です。関係ない人にまで被害をもたらす危険性あり。
社会を震撼させたオウム真理教事件がどういう過程を経て犯罪集団になったか。調べれば参考になると思います。
背景1 内容が非科学的 超能力の実演、空中浮揚、未来予言 奇跡を起こす。
背景2 教祖絶対主義、わたしは世界の王だ。私は神だ。わたしはキリストの生まれ変わりだ=完全な精神病。その教祖には誰も逆らえない。だから間違いを正せない。狂人はいつまでも狂人のまま。
背景3 信者の奴隷化 監視による信者の完全支配、厳格な戒律、違反者に対する罰。反対者に対する血の制裁。
背景4 信者の不幸 マインドコントロールによる人格破壊、家庭の崩壊、人間関係の破滅、結果信者だけの閉鎖世界に逃げ込む(集団生活)。恐怖によって縛られているため抜けたいのに抜けられない。やがてみな狂人と化す。
最終結果 犯罪集団へと移行、暴力、恐喝、詐欺、財産強奪、最終的にはテロによる社会への攻撃。または集団自決。

■教祖崇拝
 青山がこのように宗教を批判すると、一部の宗教団体から反発が出そうです。
「我々の教祖を見てくださいよ。教祖はそんな人じゃない。親しみやすく、誰にでも明るく、気さくに接し、暖かい声をかけている。」
それはタダの演出じゃないの?
一信者から「あなたの考えは根本的に間違っている」といわれても素直にそれを聞き入れますか?
教団が小さいうちはまだよい。これが何十万、何百万という信者をかかえた組織になったら、いちいち一人の批判に答えていられない。無視するかも知れませんよ。
よく、大統領とか首相とかがテレビのバラエティー番組に出て、お笑いトークを繰り広げる。テレビの影響力は大きいから、それを見た国民が、「○○さんは、いい人なんだ」と印象をもつ。つまり気さくで親しみやすい、そんな近寄りがたい雲の上の人ではないというイメージを演出し、国民に好印象を与えるのが狙い。一種のプロパガンダです。つまりその奥には必ず政治的意図があるのです。
宗教の場合も同じでは?まああなたが自分の教祖を称えるのは自由ですが、それを人に押し付けるな。相手の共感を引き出そうとするな。ということです。
教祖への賛美が崇拝になり、心酔し狂信しやがて思考停止状態となる。ある日心の底から信じていた自分たちの教祖が逮捕された。警察の調べによると、実は教祖は信者をだましてお金を巻き上げていた。そのお金で豪遊していた。詐欺罪ならびに横領罪。
すると教祖を神だと信じきっていた信者たちは、こう解釈するでしょう。
「これは警察の陰謀だ。当局は(または反目している別の宗教団体が政治家に賄賂を送って)教祖に疑いをかけるよう働きかけ、我々の団体をつぶそうという魂胆に違いない。」
その後、教祖自らが罪を認めたらどうでしょう。どこまでも疑うことを知らない信者たちは、
「教祖は、警察の不当な圧力、拷問によって、無理やり言わされているに過ぎない。」
もしくは、「教祖が悪を行うわけがない。詐欺も横領も正しい行いなんだ。教祖さま万歳!!」
信者たちは、自分たちの考えが間違っていることに気づいていないわけではないのです。子供じゃないですから。つまり完全に狂っているわけではない。心の片隅では、教祖に対して疑いを抱いているのです。
ただ、今まで信じきってきたために、自分の誤りを認めたくはない。認めることが苦痛なのです。なぜならもし誤りを認めたなら、自分のこれまでの人生を完全否定されることになるから。理屈をこねて自分を正当化する弁解を何とか必死に見つけようとしますが、所詮無理な話です。その言い訳は筋が通りません。
一度教祖(教団組織、教団幹部)を全面的に信じてしまった信者たちは、心の隅で一抹の不信感を抱きながらも(信者たちはそれを教祖に対する忠誠心の欠如として、教団の語る罰(地獄に堕ちる)を恐れるがごとく、表向きは必死にそれの疑念を否定し、たとえ何万回、何億回騙されていたとしても(本人も騙されていることに気付いている)、教祖を裏切ることができない。一度忠誠を誓った教団を否定することは、自分自身の存在そのものを否定することにつながり、それがとてつもなにく恐ろしいものに感じているのです。(補足5)
あるいはこの後に及んでもまだ教祖を疑うことが怖ろしいのです。その苦痛と恐怖をごまかすためなら、いままで信じてきた教祖にどこまでもすがって、ともに地獄に墜ちた方が幸せだ。それが悪魔に魂を売る行為だとわかっていながら止められない。まさに教祖が悪魔であればあるほど、教祖とともに血も涙もない悪人なる道を選ぶのです。表向きは「愛の教団」であっても。怖ろしいですね。この洗脳を解くには、永い永い年月が必要になるでしょう。ここまで極端ではないにしろ、教祖を立てる宗教には少なからずこういう傾向があると思います。
それにしても、宗教団体の教祖崇拝は異常なほどです。もし外部の者がその教祖を批判したなら、「我々の教祖様を侮辱した者は絶対に許さない」と集団で暴徒化して発言者に復讐を誓のです。その際相手を殺害することも場合によっては許されるという狂った論理を自分たちの中で展開するのです。如何に善良な教祖だって所詮人間です。完全無欠ではありません。

■悪魔崇拝
 信心すればするほど不幸になる宗教を悪魔崇拝教と呼びましょう。これは本尊を、神だと思って崇拝していたつもりが実は悪魔を崇拝していたというものです。信じられないかも知れませんが、この世界の大半の宗教はこの悪魔崇拝教なのです。悪魔なんかいるのか?と思われるかもしれませんが、まあ話を聞いてください。
・悪魔の特徴、神と悪魔の違いは?
悪魔は供犠を要求します。神は決して供犠を求めません。供犠っ何?それは生贄、またはお布施です。
たとえば日本の神社参拝です。神社に行くとたくさんの絵馬が掛けられていて、「合格祈願」、「恋愛成就」、「商売繁盛」などと書かれていますよね。人々はそういう願いを叶えてほしいために神社に来てお賽銭を放り込むのです。ただし、賽銭を出したからといって願いを叶えてくれるとは限りません。そんなことは誰でもわかっています。ただし、叶えてほしいという思いで賽銭を出していることは確か。別に叶えてくれなくても関係ないと思っている人は賽銭など出しませんから。
さて、ここで損益計算してみましょう。
まず支出から、お賽銭を出すのは明らかに出費です。たとえ5円、10円でも。それに対して収入はゼロです。願い事はかないませんから。もし叶ったとしてもそれは別の要因です。お賽銭とは関係ありません。
つまり収入ゼロに対して、支出は5円。明らかに赤字です。赤字になるとわかっていながら投資する人はいません。
つまり神社を1回参拝すると、利益はないのに損失だけが増える。お金を幸福の尺度にすれば、あきらかに不幸な結果となるのです。参拝回数を増やすほど、不幸になる。これこそ悪魔教です。お分かりですか?
誤解してはいけないこと、神社に来るのは願い事を叶えるためではなく、精神的な癒しのためだ。有料のリラクゼーションと同じだ。それは間違いです。なぜならリラクゼーションはそれ以上の効果を期待してはいません。お賽銭はあきらかにそれ以上の効果(願いを叶えたい)が含まれているのです。願いを持たずに神社に来るなら問題はありませんが。(補足6)
しかし毎回5円玉を投げるだけなら、100回参拝しても、その損失はたったの500円です。悪魔といってもかわいい悪魔です。
本当に神がいると思っている人は、願いが叶うことを前提として参拝に来ます。その中には大きな願いもあります。社長の座を得たい。あるいは今度の選挙で当選を果たしたい。あるいは宝くじで3億円を当てたい。それなりにお賽銭を出す。
しかしそこでもし願いが叶わないとなぜだろうと考える。そのとき神の振りをした悪魔が耳元でささやくのです。「本当にこれだけの願いを叶えたいのなら、もう少し(お賽銭を)出しなさい」と。この声を耳にした人は、翌日再び参拝してもっと出す。それでも願い事が叶わないなら、次の日にもっと出す。5円が100円になり、1000円になり、1万円、10万円・・・そして1億円、・・・・
神(実は悪魔)ははっきりとは金額を言わない。たとえば「私を国王の座につけてください。そのためにはいくら出せばいいでしょうか?」と尋ねても、神は無言です。でも明らかにこれでは足りないと言ってるんです。参拝者はどんどん値を上げます。お金だけでは足りないんだ。神は要求しておられる。人間の生贄、100人分の心臓を捧げよと。
この供犠を求めるというのが悪魔の特徴です。典型的なのは旧約聖書に出てくるユダヤ教の神ヤーヴェです。こいつは敬虔な信者であるアブラハムに対して自分の子供を生贄として捧げることを求めたのですから(イサクの生贄)けしからんやつです。
本物の神は決して生贄など要求しません。お賽銭なども一切求めません。ただし願い事をいつも叶えてくれるとは限らない。(補足7)
それに対して悪魔はどんな願いでも叶えてくれます。ただしそれ相当の(それに見合った)供犠を要求しますが。
もうお分かりですよね?そもそも神も悪魔も存在しません。それは人間の心の中だけに住む幻影です。心理学上の単純な思い込みです。
願いを叶えたい。その願いが叶わないから、その原因を供物の足りないことに求めているに(自分自身が勝手に解釈しているに)過ぎないのです。

■偶像崇拝
 キリスト教、イスラム教では、偶像崇拝は最大の罪だと位置づけています。なぜ偶像崇拝が悪いのか日本人にはわかりません。偶像崇拝の典型は日本の寺院とキリスト教の教会です。お寺には仏像があります。それにみな手を合わせるのです。ただし仏像は金属や木材で作られている単なる物体です。それを拝んだからといって何にもなりません。拝んでいる人もその像が動き出して自分の願いを叶えてくれるなんて思っていません。拝んでいる人もそれを単なる物体だと思っています。同じものはキリスト教の教会の祭壇にあるイエスの十字架像です。その像に拝んでも何にもなりません。それは仏像を拝むのと同じです。
では純粋な偶像否定は、イスラム教徒とユダヤ教か?ノー、イスラム教もカーバ神殿に向かって拝んでいます。そこに神の像はありませんが。何か(目印になるもの)に向かって拝んでいる時点で、偶像崇拝と何も変わりません。偉そうなことを言っても結局みな偶像崇拝教なのです。
拝むのではなく祈ればいいのです。祈る時間や祈る方向も関係ありません。どう祈っても(何かしらの像に向かって祈っても)かまいません。
ついでに言えば、多神教よりも一神教が優れているなんていうのは嘘です。(同時に多神教の方が優れているという理由もない) 神は別にいっぱいいてもいいのです。いや神は唯一である。という人はどうぞご勝手に。そもそも神なんか実体としては存在しないのですから。

■正統と異端
 宗教における教義上の論争は同じ宗教の中にもよくあります。対立の結果、自分たちこそ正統、相手は異端。と主張。さらに激しい罵り合いに発展し、こっちは神だ!向こうは悪魔だ!と。この諍いが殺人・戦争を生む場合もあります。しかし、どっちが正統でどっちが異端なのか、どっちが神でどっちが悪魔なのか、見分ける方法などありません。合理的な考えに照らせば、神も悪魔も存在しない。考え方の違いは当然あります。正統も異端もないのです。なぜ正統か異端かということにこれほどこだわるのか?違いを認めないのか?寛容性がないのか?それは宗教の性質上権威や尊厳を保つ必要があるからです。(この点が科学とは異なる宗教の汚点) しかし客観的に見て、アリウスとアタナシウスのどっちが正統なのか(注1)判定などできません。結局、正統か異端かの違いは、神の思し召しか悪魔の思し召しかではなく、個々人の見解の違いに過ぎないのです。
宗教に対する考え方は人それぞれ違うのです。もしかしたら教義は信者の数だけあるかもしれません。考え方の違いが発生した場合、公の場で互いに意見を出し合い最終的にどっちが正統か決着をつける。(注2) 決まったことは全員が従わなければならない。従わない者は追放する。あるいは最低限の遵守事項(聖典の記載に誤りはない。など)だけは決めて信者全員で守る。そこさえ守っていればそれ以外のことは自由でよい。同じ宗教でも、国ごと民族ごとに違っているなどよくあります。見たところまるで別の宗教のようです。しかし最低限の基本は押さえているので(例えばともに唯一神を認める。など)、その他のことが違ったとしても相手の信仰を認める。相手の宗教に対する姿勢も寛容的です。お互い認め合えば一体感を保てる。キリスト教やイスラム教はこうして分裂を避け統一を保ち続けてきたのです。
(注1) 古代キリスト教におけるイエスの神性を認めるかどうかの論争。
(注2) キリスト教では公会議といいます。皇帝立ち合いのもと決着(評決による)をつける。

 所詮、宗教は誤魔化しであり、「幸せになったような気分」しか得られません。つまり、真の幸福は科学によって得られるわけです。
昔はオウム事件なんかがありましたが、他にも似たような、あるいはオウム以上に危険な狂人宗教、詐欺宗教など沢山あるようです。
同じことの繰り返しになりますが、その宗教か狂っているかいないか、その基準として、非科学的かどうか。霊や死後の世界、神や悪魔、ハルマゲドン。明らかに間違っています。自分一人が何を信じるのも自由です。(ヒトラーを神だと信じるのも、パンダを神として崇めるのも自由) 問題はそれを他人にも信じさせようとすること。あるいは他宗教を批判する。「お前の信じている宗教は邪教だから、間違いなく地獄に落ちる」。何を根拠にそんなことを言っているんでしょうか。自分たちの宗教の方が邪教では?
低レベルな宗教によくあることですが、何か教典を持ち出してくる。そして「ここにこう書いてある」と正誤を主張する。まるで法律の六法全書のように、それは絶対に正しいのだと言わんばかりに。教典だって絶対に正しいとは言えませんよ。だって所詮人間が書いた物ですからね。神が書いた物なら正しいかもしれませんが、そんなものはこの宇宙には存在しません。(補足8)
余計なお世話かもしれませんが、皆さま、どうか落ち着いて、よく考え、そのようなインチキ、カルトに引っかからないようお気をつけてください。

 最後に一言。
人に限らず人間は生きていくうえで様々な困難に遭遇します。人によっては自身の力ではどうにもならない状況に陥る場合もあるでしょう。その際何かしらの宗教に頼りたい、信仰にすがりたいという気持ちは止むを得ないことなのです。それが健全な(害のない)ものならいいのですが、カルト的なものだと心配です。だからこそ今それほど困難じゃない状況下で、宗教についての正しい認識を身に着けておく必要があるかと思います。
それともし、自分が見えないほど狂信的な宗教にのめり込んでしまった人に対してはどう接したらいいのでしょうか?
宗教の本質を知った我々覚醒した者(あなたとこの青山です)は、妄信者に対して優しく手を差し伸べることが必要だと思います。我々が妄信者にならなかったのは単なる偶然です。一つ間違えれば立場が逆になっていたかもしれません。我々は狂った宗教にのめりこまずに済んだ。済んだからこそ我々には役目があります。妄信者を洗脳から解放してあげることです。

(補足1) 「神の存在」や「死後の世界」を本気で信じている人間は完璧に気が狂っていると思います。否、自分一人が心の中で信じている分には問題はありませんよ。問題なのは、「自分は信じている。だからおまえも信じろ」という態度です。科学的根拠も示さずこんなことを他人に向かって言う。一種の犯罪ですね。

(補足2) この「やってみなければわからない」というのは、カルト宗教の決まり文句。確かに、やってみなければ判りません。でも、やれば判るんですか?と問いたい。恐らくやっても判らないでしょう。もし判るなら、どうして(どういう因果的プロセスで)、その信心をすれば金が儲かる。病気が治るなどの功徳が現れるのか?やった経験がある信徒なら説明できるはず。

(補足3) 信心すれば、あるいは入信してお布施を収めれば、お金が儲かる、病気が治るなどのご利益がある。宗教はそういううたい文句で信者を勧誘する。そして実際にお金が儲かったり病気が治ったりしたとしましょう。しかしそれは信心のお蔭でしょうか?ここで冷静になって考えてみて下さい。(あなたが藁にもすがりたい気持ちは分かりますが) 宗教の信仰と、経済指数の変動(お金が儲かること)、あるいは医学上の事象(病気が治ること)との間に因果関係(原因と結果の関係)が果たしてあるでしょうか?いやいや一度や二度ではない。何度も試した結果そうなった。確かに100パーセントそうなれば証明はされたことになります。(これを仏教では「現証」(現実の結果としてそうなる)という)(注) でも必ずそうなりますか?たとえ100回試してみなそうなった。しかし101回目はそうならなかった。としたらやはりそれは普遍性がないことを意味しますね。(その時点で現証は破たん) 1回でもそうならなかった理由って何でしよぅか?言えることは「信心すれば、必ずしもお金が儲かるとは限らない。信心すれば、病気が治る可能性も無きにしも非ず」。
(注)あわせて仏教では、「理証」という考え方もあります。これは自然の原理や法則に反しないか?自然の原理や法則とは、今までの経験、現に観察している現実の性質、あるいはこれまで何度も多くの人により検証された結果、正しいことが証明されているもの。例えば空中浮遊、または湖の上を歩く(イエスの奇跡)は、万有引力の法則に反している。もしそれが正しいなら、これまで既知とされてきた自然の原理や法則は見直さなければならないことになります。それが正しく修正されて初めて、そのこと(空中浮遊等)が立証されるのです。

(補足4) 同じように元はどうしょうもない不良で、宗教に強い嫌悪感を抱いていた者が、周りの説得により改心する話など。宗教団体としては格好の宣伝材料(広告塔、人寄せパンダ)になっています。そもそも不良は世間では厄介者と見られる。誰からも相手にされなかった。唯一ある宗教団体が認めてくれた。単純な人間はそこに引かれてしまう。それ以降その宗教を絶対的に信じてしまう。
世間ではよく注目される若者とかいますが、あれはただ単に一時的に騒がれているに過ぎない。自分もそうなれるかも?そうなったら周りの人間の(今までバカにしていた)見方も変わるかも?そう思ったら大間違いです。あなたが世間から注目を浴びるなんて、犯罪でも犯さない限りあり得ないでしょう。

(補足5) たとえば何事にも自信が持てず、自分自身を駄目な存在、卑しい存在とみなしているような、劣等感の塊であっても、人間は自分の存在自体を否定することはできません。たとえ今まさに自殺しようと自らの首を吊って苦しみもがいている者でも、死ぬ瞬間まで自分自身にしがみ付き、自己を肯定し続けるのです。

(補足6) 個人的には青山は神社の雰囲気が好きで、日本全国訪れています。初詣になるとわざわざ高い汽車賃を使って、有名どころに参りに行きます。有名な神社はほとんど行きました。そこで絵馬を買ったり、お守りを買ったりしています。
だから絵馬やお守りを買うことが悪魔崇拝だとは言い切れないと思っています。絵馬を一つ買ったからといって願いが叶うわけではないし、叶わなかったからといってもっと高い絵馬に買い換えることなどありませんから。同じ300円の絵馬に、「明日晴れますように」、あるいは「わたしを億万長者にしてください」と書いてもいいわけですから。
ただ青山の場合、みなさんとたぶん違うかもしれませんが、神社に参拝しても何か願い事をしたことは一度もありません。

(補足7) 神は当然何でもかんでも願いを叶えてくれるわけじゃありません。どう考えても「金持ちにしてください」なんていうのは無理ですね。
神の道に従った者だけが、その祈りを聞き入れてくれるのでしょう。ただし、神は願いを叶えてはくれませんが、間違いなくあなたを救ってくれるはずです。
それはあなたが今善人か悪人かによりません。(この話は6章で)

(補足8) 教義上正しいか正しくないかを争う際、同じ宗教同士なら教祖が語ったことを記録した経典、聖典が根拠になるかもしれません。例えば仏教のお経。キリスト教の聖書など。しかし例え釈迦やイエスが間違いなく語ったと証明されたとしても、だから間違いなく正しいとは言えません。なぜなら釈迦もイエスも人間。間違えることは大いにあります。いかなる経典、聖書、コーランに至るまで、人間が書いたものである以上、絶対に正しい(誤謬がない)ものなどないのです。(無論読む価値はありますが)

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