TSUKUSHI AOYAMAのホームページ

トップへ戻る インデックス
← 前へ 次へ →

外交姿勢


■外交方針
 外交方針を憲法で謳うのは、我が国が諸外国とどういう関係を目指すか、その大網を示すのが目的です。
【条文例】我が国は国民を主権とした自主独立の国家であり、国民はその自立の精神を尊重しているのであって、その自立の精神および主権はいかなる国外の勢力(これは国内の外国人勢力も含む)もそれを侵害するとこは許されない。
 我が国は独立国である。国を運営するにあたり外国から圧力をかけられたり威嚇されたりしたらただじゃ済まさない。という一つの脅しです。
つまり自国が武力を使うか使わないかに関わらず、外国からの侵略(まがいの)行為に対しては強く抗議するとともに、いかなる要求にも断固として拒否する。侵攻する様をおとなしく黙って傍観することはしない。と外国に宣言しているわけです。
・我が国は、諸外国(限定される一部の国家ではなく、原則すべての国家)に対して、その主権を尊重し、互いに交流を行うことにより、友好的な関係を築くことを目指すものである。
・我が国は、全世界の平和を希求するものであり、平和と友好を目的とした国際的機関が設立された場合は、積極的にこれに参加し、各国と歩調を合わせながら、国際社会の一員として責任を果たすべく、世界平和の実現に努めるものである。

■経済流通・売買契約
・我が国の国民が、外国(国を問わない)のいかなる個人および団体と経済的な契約を結ぶことは、原則自由として認められなければならない。ただし、法に定めるものは除く。
・国外との契約行為により発生した利益に対して課税を設定する。
 国外との売買契約について課税を課すことは当然ということです。経済活動は国境を越えて自由ですが、課税を撤廃して自由な売買を可能にすることはおかしな話です。国内でも消費税、所得税という形で課税があるのに、それを取りやめることは、税を撤廃するのと同じことです。
税金は必要です。なぜなら政府は税金よって賄われているから。外国との契約は国によって定められた規定に基づき課税されるのです。その仕方(税率等)は、国ごとに独自に決めるもので一律ではありません。併せて外国の売り手は、食料品その他の製品が満たすべき相手国の基準に従うしかない。こんな不衛生のものを我が国で売ってはならん。と言われたら従うしかないのです。もしくは商売をあきらめるしか。
ここで注意してほしいこと。その税金は誰が支払うのでしょうか?もちろん我が国の国民です。なぜなら国民が政府から行政サービスを受けるのですから。外国人は何もサービスなど受けていません。(外国内にいて取引をした場合はサービスなし。ただし、渡航が伴う場合はまた別) したがって税金を支払う義務はない。つまり国内の買い手が国内で買うよりも(若干)高い買い物をすることによって、税を自国に支払っている。といえます。国内よりも高く買わなければならない理由は、本来は買うことができない外国のものを買えるという恩恵に浴しているから、というものです。
ただ次のような考え方もあります、外国人は本来はできないはずの我が国との取引が可能になったという恩恵を得ているわけだから、その見返りを税という形で支払っている。とするもの。(取引と税との関係については図63「国際取引における税制度」を参照)
ただし、政府の政策として国内の生産者を保護するために、不当に高い税を掛けるのはまずい話です。国の経済が健全さを失い生産事業が危機に瀕しており、やむを得ず(ただし一時的に。経済が復興したら元に戻すことを条件に)生産者を守るという立場なら話は別ですが、そうではなく極普通の経済状況下においてそれが為されたら、それは経済自由の原則に反するアンフェアな処置といえます。なぜなら国内には生産者だけではなく、消費者もいるからです。消費者は国内からしか物を買ってはならないなんて、権力の横暴です。ここで買え、我が国のものを買いなさい、なんて政府から言われる筋合いはない。国にそんな権限などないはず。どこから買おうが誰から買おうが、そんなことは買い手の自由でしょ。
物(食料品や工業製品など)を作って売る場合、地産地消(国内で生産してそれを国内で消費する)が一番コスト的に有利です。しかし、それでも外国の物の方が安くて質もいいなら、消費者は何も自国に義理立てする必要はない。当然好きなものを買えばいい。もし外国の製品が高税率によって消費者の手が届かなくなったら、それは外国の売り手にとっても不満だし、併せて国内の消費者にとっても不満です。生産者を守るために、消費者に犠牲を強いるのもおかしな話です。税や売買の基準を設けることは国ごとの方針とはいっても、そんなに高い税率なら、あるいはそんなに厳しい基準なら、もうこの国とは取引しない。と次々に外国の売り手は引き上げていくことでしょう。そうなれば国内の経済は逆に停滞します。生産者は質の低い物しか作れなくなり、消費者は何が価値ある物なのかもわからなくなる。それでは国内経済の破たんです。
本来安くていいものを作るのは生産者の責任のはず。それに過剰な保護を与えることは、生産者を甘やかすことになるのでは?この激しい経済変動の世の中、グローバリズムの時代にあって、少しでも努力を怠れば儲けが減るのは当たり前。生産者の生き残りは、その視点に立てるか立てないかに掛かっているのです。

最後に国の平和という視点で、有名な日本国憲法の第9条について考えてみたいと思います。ただし、あくまで青山の私見です。
■日本国憲法 第9条
【条文】
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 日本が世界に誇れること、他の国もよりもリードしていることって何でしょうか?たとえば、日本のお酒とロシアのお酒とどっちがうまいかを較べたところで、答えなんか出ません。日本人は日本の酒がうまいといい、ロシア人はロシアの酒がいいというに決まってますから。他の国の人だって自分の好みによって答えが分かれるでしょう。数としてはロシアの酒の方が好きだという人が多くいても、だからロシアがいいともいえないでしょう。
ノーベル賞受賞の数が他よりも多い。だからといって自慢にはなりません。おれの国の方が高い山があるぞ。といわれてしまいます。
日本が本当に自慢できるもの。うちの国はこうだからあなたがたも見習いなさい。と言えるものなんかはっきり言って何もありません。
ただ、一つだけ誇れるものとしたら・・・?それは憲法に、我が国は戦争はしません。武器は持ちませんと、はっきり謳っていること。すなわち憲法9条の存在です。
「そんな戦争をしないなんて、武器を捨てるなんて」と笑い出す国あるかもしれませんが、それはその国が愚かなんです。平和の意義が解っていない。
まあ、現実問題として、いまだに戦争が絶えない状況で全世界の平和を実現するなんて、ほとんど不可能。かもしれません。ただし、どれだけ大変かもしれないが、どれだけ長い年月がかかるか知れないが、いつの日か実現することを確信して、その不可能性に挑戦する。その崇高な精神がわからないんでしょうね。なぜなら、世界平和は人類の普遍的な希望だからです。平和を求めない人はいません。平和を求めない国はありません。あなたの国の憲法も日本のように謳ったらどうですか。日本の国民(全員とは限らない)は憲法のその精神が解っているから、戦争はしない、武器はいらないと堂々と言えるのです。それを笑うあなたの国の人間は、本気で殺しあうことが好きなんでしょうか?

■自衛隊は、憲法違反か?
 さてまたまたタブーへ挑戦。今回はあの自衛隊がこの憲法第9条に反しないか、純粋に法解釈として考察してみたいと思います。
自衛隊が引っかかるのは、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」というところでしょうか?自衛隊はどう見ても軍隊ですよ。しかも陸海空と別れていますから。戦車などの武器も所有していますし、階級や組織の構成も旧日本軍を踏襲しています。軍事学上近代的な軍の条件を満たしています。(満たしていないとしたら、他国と比較して、それは軍事法廷がないことぐらいかな?) 自衛隊は軍隊ではありませんなんて、世界には通用しないでしょう。
自衛隊が、軍隊ではなく憲法に反しない理由を政府見解等からみてみましょう。
(その1) 自衛隊は、自衛のための戦力である。自衛権は認められているため憲法には反しない。
 自衛権は認められていますよ。それがなければ国家とは言えません。しかし自衛のためなら軍隊を持ってもいいとは言っていない。今時、「我が国の軍隊は、自衛ではなく侵略のための軍隊である」なんて言っている国がどこにある?問われたら、どこの国も「自衛のため」と答えるでしょう。世界中に展開しているアメリカ軍だって、いずれアメリカ国内が侵略される前に先制攻撃をしているだけ。つまりこの先制攻撃も自衛のため。ということです。そうでなければ国民が納得しないでしょう。国民の税金をそんな外国のために何で使わなくちゃならないのって。(補足1)
(その2) 憲法は理想的規範にすぎない。従って現実の政治手段は憲法に拘束されない。
憲法も法律の一つです。その記載内容が単なる理想なら、それは法律の意味をなさない。もし刑法もただの理想なら、殺人を犯しても刑罰を受けなくていいという解釈もできます。だってそれは理想に過ぎないのであるから。
(その3) 自衛隊は災害復興などで社会に貢献している。その価値は認められるべきものである。
 当然です。しかし災害復興に戦車は不要でしょう。もし災害対策、復興支援、人命救助が目的なら、装備、組織、教育訓練等もそれに特化したものに変えるべきでしょう。名前も災害救助隊に変えては?
災害などで自衛隊の捨て身の活躍は国民にとっても称賛に値します。だからと言って憲法の問題とはまた別です。
とにかくこの「自衛権」という言い訳は通用しません。心情は別にして、純粋に法解釈学により考察すると自衛隊が現憲法に違反するのは明らかです。そんなことも解らないとしたら、小学生よりも文章理解能力に欠けるとみなされるかも。
とにかくどんな解釈も屁理屈にしか聞こえない。大の大人が情けないと思う。ダメなものは問答無用でダメなんです。(補足3)
ただし、一つの抜け道が考えられます。自衛隊も警察の一部とみなすのです。(とてもそうはみなせないけれど・・・それが軍事学の常識。)つまりあくまで国内の治安維持に活躍するというわけです。だって、もしすべての戦力保持を禁止されたら、お巡りさんが持っている拳銃も警棒も駄目ということになりますから。
たとえば我が国に攻めてくる者は外国勢力ではなく、あくまで国家とは無関係なならず者。そのギャング団(その中には我が国の人間も交じっているかもしれない)が、国境を越えて上陸してきた。奴らは機関銃、バズーカ砲、戦車などを携えていた。通常の警官が持つピストルや警棒では太刀打ちできない。そのために警察の特殊部隊である自衛隊に出動を願う。というわけです。苦しい言い訳ですが、とりあえず合法というところでしょうか?
最後に、自衛隊員でも他国の兵士においても、命の危険を顧みずに敵に当たる真似だけはしないでほしい。国民はそこまで要求していません。誤解しないでほしいことは、前線において(自分の命が)危険な状況か否か、撤退するか踏みとどまるかの判断をするのは、指揮官ではなく自分自身だということ。敵の攻撃を受け退却するしかない状況の中でも、なお指揮官の命令をただ待ち続けていること自体、自分の命にかかわることを他人の判断に任せているという意味で、人間としての行いとは言えないと思います。人間なら自分の行動は自分で決めるべきです。
国民も決して兵士にそれ(あくまで給与以上のこと、国民にとっては支払った税金分以上のこと)を期待してはなりません。もし一人でも兵士に犠牲者が出た場合、罪は退却を命令しなかった指揮官、ひいては全軍の司令官にあるのです。しかしそこで逃げなかった自分自身にもその責任の一端があると言えましょう。また命令を出したにも関わらず退却をせず、敵を食い止めるために最後まで戦って亡くなった兵士は、美談として語られるか、あるいは軍神として祭られるか。それはただ政治的に利用されるだけなのです。本来から言えばただの命令違反者ですが、組織を超えて自分の意志を貫くのも、(もちろん誰にも責任は問えないし、人から称賛されないかもしれないが)人間としての一つの生き方かもしれません。
人間は自分の行動は自分で決める。たとえ軍務についている兵士が上官から命令を受けても、それに従うか従わないかは、自分が判断するのです。後々戦争犯罪を裁く場で、自分が行った非人道的行為を指摘されたとき、「それは上官の命令です。逆らえませんでした。」というのは子供の言い訳です。そんな言い訳は国際法廷の場では通用しません。(責任の追及ですが、もちろん本人の立場、周りの環境等様々な状況を考慮した上での判定となりますが)
つまり上官の命令に従ったこと自体が罪なのです。命令に従わなかった罪もあれば、従った罪もある。いずれにしても自分が判断したのだから、責任は自分にあります。

(補足1) アメリカ軍はすべてのアメリカ国民を守るために全世界に展開している。外国勢力は、いずれアメリカ国民を攻撃しようと企んでいる。その計画を阻止するために事前に相手を先制攻撃で叩いている。というのは間違いです。アメリカ軍が守っているのは、(一人一人の)国民ではない。アメリカという国の体制です。どこの国の軍隊でもみなそうです。守っているのは国の指導者です。(補足2) すべての国民の命まで守り切れません。とくにアメリカの場合、守っているのはアメリカの巨大資本、その所有者(大資本家)たちです。そのことに国民はそろそろ気づいてもいい頃では?だったらなぜアメリカは莫大な費用をかけて(赤字覚悟で)軍を外国に駐留させているのですか?しかも税金で。
平和な時でも軍隊を維持するにはお金がかかります。平和だからと言って兵士は遊んでいるわけではありません。訓練しているのです。兵士だって毎日の生活があります。そのためには給料をもらわないと。その給料は国家予算によって賄われているのです。平和な時に大規模な軍隊を持つことは国にとって大変な負担です。本音は軍隊なんか持ちたくないのです。

(補足2) 指導者を守ればとりあえず国の体制だけは維持できる。国民一人ぐらいが死んだってそれで国がなくなるわけではない。指導者一人の死は、その影響が大きい。国だって数人の死なら関係ないが、何万人も死んだら大変。国の体制が危ぶまれる。
人間でも一滴の血が流れたぐらいでは死なないが、ある程度の量の血液が失われたら、生命の危機にさらされるのと同じこと。

(補足3) アメリカでは国防省、日本では防衛省と言うのはどうしてでしょう?国防つまり国を守る。何から守る?外国から?敵国から?そんなことは言えません。憲法の規定により、日本は外国とは戦えないのです。中には自衛隊を外国の軍隊のように刷新したいと思っている連中もいるようです。空母を持ちたい。民事とは異なる軍事法廷(軍法会議)の設置。その前に憲法の問題があることをお忘れか?そんなことは憲法が許さない。もしそうしたければ、まず現憲法を変える努力をすることだね。

平和の問題は、またこの後でも取り上げます。何しろ大きな問題ですから。結論を急がないように。

ご意見・ご質問