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物質と原子


 さて、これまで話してきた「相対性理論」と「量子力学」をもとに、我々の生きているこの自然界の仕組みについて考えてみたいと思います。
まず我々の体も構成している物質とは何か?

 ここに大きなケーキが一つあります。これを兄弟で均等に分けるには、包丁で真ん中から二つに切る必要があります。さて、もっと大勢の人に分けるには、さらに包丁を入れて1/4、1/8と具合に切り分ける必要がありますが、この包丁で切るという行為を続けていき、果たしてどこまで分けることが可能か。そりゃ一つ一つの取り分は当然少なくなるけれど無限に分けることができると思いませんか?それが普通の人の思考です。
ここに一人の「変人」がいました。彼の名はデモクリトス(BC.460〜BC.370)。古代ギリシャの哲学者です。彼はこう考えました。このどこまでも切り分けるという行為は永遠には続かない。もう限界でこれ以上分けることができない物質の最小単位がある。その最も小さいものを「アトム」と名づけたのです。日本語で「原子」です。この物質の最小単位である原子を仮定すると、さまざまに化学現象を説明できるのですが、あまりにも小さすぎて観ることができない。本当に原子なんかあるのか?という懐疑論まで出ましたが20世紀になってやっと原子の存在が確認されました。(補足)
その後、原子の構造も次第に明らかになり、原子は中心に原子核と言うプラスの電気を持つものがあり、その周りをマイナスの電気を持った電子が回っている。さらに原子核はプラスの電気を持っている陽子という素粒子と、電気を持っていない中性子からなっています。陽子の数が決まれば、その周りの電子の配置が決まることから、原子の化学的性質は、原子核にある陽子の数によって決定されることが分かりました。陽子が一つならその原子は「水素」です。二つなら「ヘリウム」この水素とヘリウムは化学的性質が全く異なります。陽子の数が違う原子を順番に並べると、自然界には100種類くらいの原子が(この原子の種類を元素といいます)あることが分かりました。その性質の違いはすべて中心の陽子の数できまるのです。
中性子というものは、化学的性質(他の原子と電気の力で作用しあったり、合体したりして分子になる)に影響を与えません。陽子1個の水素にも、中性子がゼロの普通の水素と、中性子が1個ある重水素というものがあります。つまり中性子の分だけ質量が重いのです。
すなわち、この陽子、電子、中性子のたった3種類さえあれば、それらを組み合わせることによって、この世のほとんどすべてのものを作ることができるのです。(図26「原子の構造」参照)
何とすばらしいことか。金だってダイヤモンドだって作れちゃうんだぞ。すごいと思いませんか?
その物質の設計図の基になっているのは量子力学の理論です。まさに万能です。これでもう科学の研究は終わりかもしれません。

(補足) ファラデー(注1)の電気分解の法則というものがあります。これはある決まった量の電気を加えると、それに対応した量の物質を取り出すことができる。というもの。ということは物質そのものが電気を持っているということ。もし電気の量が非連続的(最小単位がある)なら、物質にも最小単位があるということ。20世紀になって、有名なミリカン(注2)の油滴実験により電気に最小単位(電気素量)があることが分かりました。
(注1)1791〜1867 イギリスの化学者、物理学者 貧しい家庭に生まれたため高度な教育を受けられなかったが、科学上の沢山の発見をした。
(注2)1868〜1953 アメリカの実験物理学者

(おわりに) 結局、人間の身体も原子から出来ています。国王陛下だろうが、世界一の大金持ちだろうが、所詮原子の集合体に過ぎないのです。
人間はただの原子である以上、独裁国家の権力者だろうと、ホームレスのおじさんだろうと、それを構成している原子に違いなどない。カリスマ的宗教の教祖だって、この青山だって、原子の集合体以上の何物でもないのです。
目の前を目の覚めるような美人が歩いています。それを科学的に言うと、原子が(少し波っぽく)移動しているとみなすのです。
ただし、誤解してほしくないことがあります。人間は決して「機械」ではないということです。機械というものはある目的のために誰かによって作られたもの。果たして誰が作ったんでしょうか?強いて言えば神です。ただし目的はわかりません。
人間が作ったものはみな機械です。例えばパソコンはある目的のために人間が作りました。それに対して生物は機械ではない。人間どころか、どんな原始的な生物でも機械ではない。いや、自然界に存在するものに機械なんか一つもありません。

 すべては原子からできている。「だから何?そんなこと俺には関係ない。それを知ったからといって何もうれしくはない。」いや、違うんです。
人間がただの物質、足もとの石ころと同じであることを知ったなら、逆にいかなる物でも尊いことになりませんか?そしてただの物質であるからこそ、人は皆、否、生物、無生物に限らず、すべての存在は平等であることを知るのです。
どんな高貴な人間でも、身体から出てきた”ウンコ”はやはり臭い。どれほどの美人でもその体には糞尿が詰まっている。男女の交わりを経験した者は体が穢れているとか、未だにそんな阿呆みたいなことを言っている。この宇宙に存在する物は、いかなる(宗教的な、あるいは神聖な)物でも穢れている。逆に穢れた身体を持つからこそ人間一人一人は皆尊いのです。
この世界は皆物質で構成されている。このことから人を差別したり、軽蔑したり、見下したり、逆に崇めたり、人に優劣をつけたりすることがいかに愚かであり、下らないことかを知る。それを我々に教えてくれるものこそが「自然」であり、それを知る方法こそが「科学」なのです。

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