TSUKUSHI AOYAMAのホームページ

トップへ戻る インデックス
← 前へ 次へ →

釈迦の生涯 教えと教団


 釈迦の悟りの内容とは何でしょうか?はっきりとは分かりません。あくまで青山の推測ですが、恐らく、宇宙の真理としては「縁起」を、そして苦を克服するための実践行としては、「中道」を、説いたものと思います。(補足1)
仏教は単なる哲学ではありません。頭で理解するだけでは駄目です。実践なくしては、苦を克服することはできないでしょう。
釈迦はまず自分が悟ったことをかつての友人である修行仲間に話しました。話を聞くと友たちはたちまち彼の教えを理解したといいます。これは在家では不可能でしょう。梵天の言うとおり、彼の教えを理解できる者もいました。その者のために教えを説いたのです。(このことを初転法輪といいます)
ただし、その悟りの内容は、特段高度なものではなかったようです。もしもあまりにも高度な教えなら、諭した修行者たちもなかなか理解できなかったでしょう。それが理解できた背景には、教えの内容が世界を超越したものなどではなく、ごく当り前のことを示したに過ぎない。後で述べますが、確かに「縁起」は当り前のことです。誰でもすぐに分かります。

 釈迦は、同じ修行者以外にも次々に教えを説いています。話を聞いた者はみな弟子となりました。
たとえばこんな話。
ある日、釈迦が静かな森の中で一人瞑想に耽っていると、そこに突然一群の若者たちがけたたましく現れ、「ここに一人の女が逃げてこなかったか?」と不遠慮がちに尋ねた。聞いてみるとこうであった。彼らはみなこの近くに住む貴族の子弟であり、今日はめいめい妻を携えてこの森に遊びに来ていた。その中に一人だけまだ結婚していない者がいて、その者は近くにいた遊び女を妻の代わりに連れてきていた。ところが若者たちが遊びに夢中になっている隙に、その女が彼らの財産を奪って逃げた。そこでその女の行方を捜しているという。呆れて物が言えないとはこのことだ。釈迦は彼らに向かって言った。
「君たち、女を探し求めることと、自分自身を探し求めることとどちらが大事と思うか?」
すると若者は答えて、「それは自分自身を探し求める方が大事と思うが。」
釈迦は言った。「だったら若者たちよ。ここへきて座れ。私がいま自分を探し求めることを教えよう。」
こうして彼ら若者たちはその場で弟子になった。これは仕事を持つ庶民ではありえないことです。簡単に出家して釈迦の弟子になることはできません。毎日遊んで暮らしている貴族の子供だからできたのでしょう。

 仏教では出家と在家は大違い。経典を読めば明らかですが、釈迦は在家(例えば釈迦に帰依した国王など)に対しては、本当の仏教の教え(法)を話してはいません。日常道徳だけです。道徳が仏法ではないことは明らかです。ただ、それでも在家は大満足でした。だから釈迦にたくさんの布施をしたのです。仏教にとって在家などおまけに過ぎない。仏教は実践の宗教です。出家して修行する気のない者に真実は教えません。地位や名誉、あるいは財産や人間関係にしがみついている者には、理解することは不可能だからです。
それ以上に、在家に仏法を説いても、誤って理解されたら返ってよくない。例えば「一切皆苦」です。これはこの世のすべてが「苦しみ」という意味ですが、それを聞いた在家は、きって落ち込むでしょう。すべてに絶望して投げやりな人生を送るかもしれません。あいるは世をはかなんで自ら命を絶つとか。しかしこれが出家者にとっては救いなのです。周りから虐げられ、「何で自分だけがこんなに苦しまなければならないのか!」と嘆き、人生に絶望した者が、出家をして、「一切皆苦」の教えを聞き、「そうか、苦しいのは自分だけではなかったんだ。生きとし生ける者は、だれでも苦しいのだ。」、「ただ、周りはそれに気付いていないだけなのだ。」「それに対して自分はこの”一切皆苦”の教えを悟った。気付いていない在家の者よりも、むしろ自分の方がましである。」(この一切皆苦についてはまた別途)
と言う具合です。だから真の仏教を在家に話しても誤解される危険性があるのです。だからこれから仏法の深い話をしますが、はっきり言って青山は、在家の人には話したくはありません。ただし道を求める上で命を懸ける覚悟がある人は別です。なぜなら仏教は真剣勝負ですから。

 出家をするということはあらゆる人間関係を捨てることです。家族はもとより、会社での同僚、かつて上司、部下の関係にあった人、御恩のあった人、そして師弟関係。これらすべてを捨てて一人になること。これが条件です。つまり人間同士の「絆」。これを未練なく捨て去ること。在家にあってはこの人間関係としての「絆」(あるいは義理)、これを最も重んじますが、出家を決意した者は絆などにしがみついているようでは、はっきり言って悟りなど得られません。(師弟関係については次のコラムで)

 一旦出家したからには在家中のことは一切問われません。たとえば在家時代に何かしらの犯罪を犯した者でも、出家すれば罪を問われないのです。(釈迦の時代はそうでしたが、もちろん現代では僧侶にも一般人と同じく刑法が適用されます。そもそも日本の僧侶の多くは本当の出家者ではありません。) そのために何か犯罪を犯した者が、逮捕を恐れて、わざと出家したことも大いにあったと思います。
出家した者は在家時代の身分など一切関係ありません。在家の時は国王であっても、あるいはホームレスであっても出家後は同じ身分です。
ある時、出家者たちが集まって互いに話をしていた。ある僧が言った。「私は出家する前には象を操ることを得意としていた。」
別の僧は、「私は剣術が得意であった。」
またある僧は、「私は書道が得意だった。」と言って、めいめい自慢話が始まった。
そこに釈迦が現れて、「大変にぎやかなようだが、何の話か?」と尋ねた。
一人の僧が答えた。それを聞いて釈迦は言った。
「修行者たちよ。汝らが為すべきことは二つである。一つは法について語り合うこと。二つは聖なる沈黙を保つこと。」
ようするに出家者にとって自慢話など無駄。修行と関係ないことは悟りにとって何の役にも立たない。と言いたかったのです。
修行者にとって、(出家以降のものも含めて)過去の実績、あるいは(出家以前の)経歴など一切問題にならない。また未来に対する期待も重要ではない。今しかない。現在が全てである。今この瞬間何をなすべきかだけが問われる。

(補足1) 「中道」とは、何ものに対しても執着を持たない。即ち快楽に身をゆだねる生き方からも、苦行に徹する道からも離れる。一方に偏らない生き方。それが安心(心の平安)を得る道として日々実践すること。(補足2)
凡夫が犯す誤りとして、この「中道」とは単に「バランスのとれた生活を送ること」ではありません。”A”があればその反対に”反A”があったとします。このAも反Aも両方とも適当に取り入れることが中道だと誤解しているのです。つまり適当に欲を出して適当に欲を抑える?違います。欲を出すことにも、欲を捨て去ることも、いずれも捨て去ること。それが中道の意味です。”適当に取り入れる”ことは一種の「執着」であり、それが「苦」の原因なのです。(補足3)
「縁起」については、後ほど説明します。

(補足2) 「中道」に従えば中道自体にも偏ってはいけないことになります。因みに「中道」の反対は”極端”ですが、「中道」は”中道”に対しては適用されないのでしょうか?それもありですが、そうすると「中道」という考え方は普遍性が失われます。いいじゃないですか?時には極端でも。何か一つのことを徹底する生き方だってあると思いますよ。それもこれも人生に常道などないという仏教の思想の一つだと思います。

(補足3) 似たような言葉として儒教の教えである「中庸」があります。これは極端な生き方を避け、何事もほどほどに、適当にやり過ごせばよい。という考え方。それに対して仏教の「中道」はそのような処世術ではありません。単に真ん中を選択することではない。要は何に対しても執着してはいけないという教えです。執着から苦が生じます。この苦をいかに克服するか。それが仏教における唯一つの課題なのです。仏教はあくまで出家者に対する教えなのです。

ご意見・ご質問