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存在と現象


 存在と現象の違いって何でしょう?
我々が見る世界には様々な存在があります。石ころ、花や木などの植物、あるいは山や川、月や太陽、そして人間。
人間にも色々な人がいます。そういう多数の人が集まって社会というものを構成しています。社会も一つの存在といえるでしょう。その社会を構成している要素は一人ひとりの人間という訳です。ここで社会というものはどういうものかを定義すれば、社会という存在が現れてくる。定義次第で社会というものの存在が変わります。逆に何も定義しないと社会など存在しないといえるでしょう。
人間が定義しなくても存在は存在として最初から在るというのは思い込みです。社会同様、人間だって定義次第で変わります。人間というものは定義する以前から存在していた、本質的なものというのも思い込みです。もしも何も定義が為されなかったら、人間など存在しないのも同じです。
さらに、ここで社会というのは多数の人間から構成されていて、かつ人間というものは目に見える動物(脊索動物の中の哺乳類、霊長目の一種)として定義してみましょう。
すると社会というグループに属するたくさんの人間が互いにコミュニケーションを取っている(作用、影響を及ぼし合っている)ことが分かります。人に作用したり(影響を与えたり)、逆に人から作用を受けたり(影響されたり)、この作用したり作用されたりということは一方通行ではありません。作用したら必ず作用されるのです。どんなに地位の高い人間でも、人から作用を受けるのです。それがどんなに地位の低い人間からであっても。それが社会です。(図75「世界の中の存在」参照)
ある人が誰かから影響を受けると、そのことによって影響された人は変化します。そしてその変化が今度は別に誰かに影響を与える場合もあります。つまり社会における影響の大もと、作用の第一原因なんかない。社会を構成しているすべての人間はみな平等であり、互いに作用し相いながら存在している。これを仏教では「縁起」と呼んでいます。
我々は社会、あるいは世界のすべてがこのように縁起によっていることを観察できます。ここで観察されているのは存在同士の作用でしょうか?それともただの現象でしょうか?存在なんていうのもただの仮説なのです。なぜなら上で説明した通り、存在は定義次第でどうにでも作れますから。我々が知覚できるのはただの現象に過ぎないのです。
世間で騒がれている有名人だって、その人物が今テレビに出て何かをしゃべっているとしても、それは単に映像(光)という現象と、音という(空気が振動する)自然現象以上の何者でもないのです。本当にそんな人間(その有名人)がこの世にいるかなんて分かりません。だってテレビで映像を見ているだけですから。 

 だったら存在なんかないのか?もしかしたら本当に無いのかもれません。ただし何も存在しなかったら世界など無いに等しいのです。それだと話が前に進みませんから、存在というものを改めて定義してみましょう。
まず存在しているものとして、少なくても「自分」は存在しているはずです。(存在していないかもしれないが、それだと話はここで終わり) すなわち自分はどういう存在なのかを明らかにして、それと同様のものを自分以外にも適用して、この世界に存在するとすればよい。
自分が社会の中に存在するとして、社会の中の自分もきっと図75のように周りから、特に周りの人間から作用を受けます。(たとえば人から悪口を言われたり、逆にお金を握らせてくれたり) また、逆に周りの人間に作用したりします。(たとえば自分が相手に暴言を吐いたり、卑猥な言葉を投げかけたり)
上記のように、人から作用を受けて、それによって自分自身が変化して、相手にその作用を返したり。その際無意味に相手に作用を返しているのではない。そこに主体性がある。人からAという作用を受けても、Bという作用を返すのか、それともCという作用を返すのかは、その作用を受けた主体が決定するとことです。
存在とは、他から作用を受けた場合、どう相手にその作用を返すのかを、人から受けた作用の中身を分析して、相手の意図を推察し、過去の経験、これまでに蓄積してきた情報を参考に検討を行い、最も「目的」にあった行動を選択した上で、自分が了解した内容の作用を相手に返す。という営みが可能なもの。それを(主体的な)存在といいます。(図76「主体的存在としての自己」または、図55「意識と行動」の「主体的存在とは」参照)
存在とは人間だけとは限りません。上記主体を持つ、つまりその者はその者によって行動(作用されたものに対するこちらからの作用の仕方)を決定する者はみな主体的存在と言えるのです。鳥や魚などの動物、あるいは花や木などの植物から、石ころなどの無生物に至るまで、すべて主体を持つ存在と言えるでしょう。(補足1) 
ここで重要なことは、主体性を持った存在なら、そのすべての責任は、その行動を為した自分にあるということです。自ら責任を取れないものを存在とは言いません。
ただし、もし人間が主体的存在なら、上記でも示している通り、自身の「目的」(人生の指針)によって行動を決定しなければなりません。「目的」もなく、ただ石ころが蹴られたら蹴られたままに転がるようでは存在とは言えません。石ころは目的を持って作用の仕方を決定しているのです。だから人間も、ただ「周りの人から頭を叩かれたから仕返しに相手の頭を叩く」(頭を叩き返す動機が相手から先に頭を叩かれたというの)では、この「目的」が分かりません。
犬や猫にも目的がある。何のためにドッグフードを食べるんだと聞かれたら食べたいから食べるなんて答えになっていない答えはしません。そこにはちゃんとした理由がある。その犬は明確な目的を理解しているからこそ、そういう行動(ドッグフードを食べる)を取っているのかもしれません。いや、犬なんか何も考えていないよ。というのは人間の勝手な思い込みです。
ただし、犬の言葉は人間には分かりませんから、何と答えているかは知りようがありません。石ころに何のために転がるのかと聞いても、石ころは何も話さないため人間には分からないと思います。ただし、そこに明確な目的や意志があるのかも?しれない。
それに対して、人間はちゃんと答えられるのだから、何の目的のためにそうするんだ。頭を叩かれたから、頭に来たから叩き返す。何で叩き返さないといけないのか?その理由はこうこうです。と言葉で答えられるはずです。もし答えられなかったら、それは主体とは言えない。犬や猫でも何のためにそうするのかという理由が述べられる?のに、人間がそれに答えられないはずはないと思いますが。(補足2)
ここで人間の場合に限定しますが、(犬や猫あるいは石ころは言葉が分からないから対象外)、その人間が主体性を持った存在なのか、それともただの現象に過ぎないのか、その大きな違いは、目的を持っている(明確になっている)か?持っていないか?
つまり何のためにそうするのか、理由を明確に示せるか示せないか?何のためにそうするかを別の表現を使えば、何のために生きるのか?すなわち、あなたが存在なのか、それとも現象(見えているもの以上のものではない)に過ぎないのかの違いは、生きる目的を自分自身で明確に認識しているかしていないかに尽きるのです。その何のために生きるの答えは、問うまでもなく”幸福”のためだと言うでしょう。従って、我々存在者にとって唯一の課題は、”何が”幸福なのかということです。
ここにこの第6章のテーマがあります。人間は、そして自分は、あなたは何のために生きているのか、その生きる目的を明確にすること。もしこの生きる目的を認識できないならば、あなたは決して存在とは言えず、存在ではないなら当然自ら幸福にもなれません。生きる目的とは何か?それをこれから語っていこうと思います。

(補足1) そんな石ころが主体性を持ち自ら選択可能な存在とはとても思えないかもしれません。しかし本質的には人間も石ころも同じなのです。なぜなら作用のされ方、作用の仕方はそのもの自身(の個性)が決めるからです。(図58の石ころを蹴るという場合を再度考察願います) この人間も石ころも存在としては同じという話は、仏教によって明らかにされています。その話はまた後ほど。

(補足2) もし犬や猫の言葉がわかったとして、彼らに生きる目的(何のために生きているのか(ドッグフードを食べるのか)?)を問うたとき、明確に答えが返ってくるかもしれない。もしも犬や猫が生きる目的を答えられた場合、同じように言葉がわかる人間に対しても生きる目的を問うたとき、「わからない」、「考えたこともない」、「考えたくない」などの答えが返ってきたら、明らかにそれは犬や猫よりも劣っている証拠です。なぜなら、犬や猫でさえ自覚している生きる目的について、あなたははっきりと人間の言葉で「そんなことは知らない」と答えているのだから。
するとあなたは言うかもしれない。「犬や猫だってそんな生きる目的なんか自覚しているわけないじゃないか。ただ本能に従って生きているだけだ」と。でもそれは単なる思い込みです。言葉がわからないからそう決めつけているに過ぎない。もしかしたら犬猫だってそんな「何のために生きている」なんて知らないかもしれない。
ただ、あなたが人間なら、何のために生きるという答えがまだ得られていなくても、「今考えてます」あるいは「今答えを見つけようとしています」という回答が欲しかった。犬や猫に笑われないように。いやいや、あなたがもし生まれてから今日まで、生きる目的なんか考えたこともなかったとしても、「そんなこと考えたくはない」なんて言わないで、せめて「これから考えます」という回答が欲しいのです。あなたはただ本能的な欲望に生きる動物とは違って、生きる目的を自覚しなければならない人間なのですから。
「生きる目的なんか自覚する必要があるのか?」あるいは「目的なんか考えずに生きることがなぜ悪いのか?」と一部の人は反論するかもしれません。もちろんどう生きようと自由です。生きる目的など考えないで、ただ好きなように生きるだけでも結構です。食べたいときに食べ。殺したいときに殺せばいい。ただし断言して言えます。何のために生きるのか、生きる目的を明確に自覚していない者は、間違っても幸せなんかは得られないと。あなたがもし幸せなんかにはなりたくないと言えば、どうぞご勝手に。
何となく話が宗教的になってきましたが、初めに断った通り、これは宗教ではありません。絶対に誤解しないでください。

存在とは何か?
それは本当に存在しているのでしょうか?宇宙は確かに存在しているのでしょうか?時間は存在しているのでしょうか?そして隣人も存在していると言えるでしょうか?すべては単なる思い込みかもしれません。もしかしたら自分自身も存在していないかもしれない。
●結論
 存在とは、それを認識する主体、すなわち自分がいなければ存在もない。自分がそれを存在と認識して、あるいは存在とみなして、初めて存在と言える。わけです。(「独我論とは」参照)

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