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社会科学における調査


 今回から第5章に入ります。ここからはがらっと変わって人間社会の問題、すなわち社会科学の話について語りたいと思っています。例によってご意見等どしどしお寄せください。どうぞよろしくお願いします。

 ここでは、社会問題特に政治、経済あるいは国際問題、たとえば戦争と平和の問題について考えてみたいと思います。これらの社会問題は我々の日常に直接的にかかわっている事です。これらの問題を解決する手段はやはり科学しかないでしょう。科学は実効上の効果を定量的に示すことができます。
そのために我々は正しい情報を出来る限り多く収集しなければなりません。社会科学に限らず、科学は事実のみを扱います。どんなことでも真実を白日の下にさらす。どんな場合にも(相手がいかなる機関であっても)情報開示を求める姿勢。そして得た情報はすべてそのまま公にする。それが明らかになると困る。なんてことは気にしてはならないのです。その事実が明らかになったことにより、社会が大混乱を来すことになったとしても、嘘や情報隠しは絶対にしてはなりません。それは科学に対する裏切り以外の何者でもない。
さて、自然科学と違って社会科学の問題はくらべものにならないくらい複雑です。膨大な情報一つ一つについて分析することは不可能に近い。したがって、その中からサンプルを抽出して、その傾向性を分析する方法が用いられます。そこで必要なのが、統計学の技術です。つまり平均するとこうなります。今現在はこういう傾向です。程度の結論を得ることが精一杯です。
そこで注意を払いたいのが、数字にだまされないこと。本当にそうなのか、計算に誤りはないか?疑ってかかること。
たとえばアンケート調査というものがあります。今の内閣を支持しますか?の回答。結果は支持52パーセント、不支持48パーセント。
つまり支持の方が多い。それを聞いた首相が、「国民は私を支持している」と勝手に思い込んで、何でもやりたいように、増税だろうが、憲法改正だろうが、好きなことができると。
ご冗談を。この支持率52パーセントいうのはどこから持ってきた数字だ?
アンケートです。
いつ誰にアンケートをとったんだ?わしはそんなアンケートに答えた覚えはない。
○月○日午後3時から4時までの間に○○駅前で道行く人100人に街頭インタビューしました。
たった100人!しかも地域限定。これが国民の声か?こんな52パーセントなんて数字は毎日のように変動するでしょう。増税やら憲法改正やら、こんな重たい政策を実現するのには何年もかかるでしょう。その間に不支持の方が勝ることになるかもしれない。アンケートをとった人をランダムにサンプリングしたの?
はい。支持政党もバラバラです。
この忙しい時期によく皆さんアンケートに答えてくれましたね。
サラリーマン風の人はダメでした。まず団扇を配って人を誘い、アンケートに答えたら飴玉を差し上げると言ったら、子供連れの主婦の方が応じてくれました。ただ、その団扇には首相の顔が描いてあったのですが・・・
このアンケートに答えるという時点で、人をランダムに選んでいることにはなりません。なぜなら、アンケートに答えたい人と答えたくない人の二通りがいますから。つまりこの結果はアンケートに答えたくない人の意見は反映されていないのです。

騙される大衆
 よく言われることとして「日本人は勤勉」というのは本当のことでしょうか?まさか1億人いる日本人すべてを調べたわけじゃないでしょう。(補足1)そんなことは現実的に不可能です。だから「日本人は勤勉」というのは明らかに”嘘”です。こんなことは子供でもわかります。言えるとしたら、「日本人の中にも勤勉な者がいる」という程度。同様に、「アメリカ人は頭がいい」や「中国人は行儀が悪い」というのも明らかに嘘です。だってアメリカ人2億人。中国人10億人。それをすべて調べるなんてできますか?一人一人調査して。調べずにいい加減なことを言っているんだから、やっぱり嘘です。当然アメリカ人の中にも頭のいい人はいますが、頭の悪い人も当然いるでしょう。何しろ2億人もいますから。
では、調べてはいないけれど、「日本人には怠け者もいる」というのはどうでしょう。調べてはいないからやはり嘘でしょうか?もちろん調べてはいませんが、1億人もいれば一人は怠け者もいるのはほぼ確実です。したがって完全に正しいとは言えなくても間違っているとは言えない。その集団が巨大であれば、怠け者もいれば勤勉もいるのは当然でしょう。さらにこういう言い方はどうでしょうか?「日本人のAさんは勤勉」。勤勉の定義が不明確ですが、個人の主観として、Aさんという一人の人物を観察した結果「勤勉」だと思った人がいるのは事実です。間違いではありません。
すなわち、「〇〇人は勤勉だ」という言い方=嘘。「〇〇人には怠け者もいる」=ほぼ正しい。「〇〇人のA氏は勤勉」=個人の意見として正しい。となります。
テレビのニュースで、例えば〇〇人が喧嘩をしているところが映されたとします。するとそれを見た視聴者が、騙されて「〇〇人は暴力的だ」という嘘を信じてしまう。これはマスコミ、テレビ局が大衆を欺くための偏向報道です。この喧嘩のシーンは、多数ある一場面に過ぎないのです。当然〇〇人には暴力的な人間もいるでしょう。逆にとても親切な人もいるはずです。こうして大衆は騙されるのです。否、テレビ局は騙しているわけではありません。あくまで一場面ですが(”やらせ”ではなく)事実を報道しているだけです。それを勝手に解釈し、誤った理解をしているのは大衆の方です。我々はもっと賢くなるべきでしょう。

偏見と正見
 人間は時として、否、常に偏見的に(あるいは先入観で)物事を見ています。つまり、はっきりと確認したわけではないのに思い込みで断定するのです。噂を聞いて、「Aさんは良い人だ。」、「Bは悪人だ。」。それをまた人に伝えて、この間違った噂がどんどん広がり、嘘が真実になるわけです。
誰が初めに言い出したのか分からないような噂だけではない。テレビでも言っていた。それを疑いもなく信じるわけです。また世間でよく言われること、または昔から信じられてきたこと。例えば、「男は強い」、「女は優しい」、あるいは「為せば成る。為さねば成らぬ。何事も」は本当かどうか疑わしい。実は大嘘かもしれない。よくよく考えてみる必要があります。
人間は、世界を認識する上で、”○○=□□”という方程式(前の、”Bは悪人”というのも方程式)に当てはめるのが好きです。好きというよりも、そういう思考しかできないのです。一々調べるのが面倒くさい。だからあらかじめ、この方程式を前提とする思考方法を取るのです。つまりこの方程式は既に証明済みというわけで、今更疑うのは無駄だと。そこに偏見あるいは誤謬が生まれる。我々は世の中で信じられていることでも、一度は疑ってみる必要があるかと思います。今まで信じてきたテレビのコメンテーターも、あるいは人気のある今の総理大臣も、実は大嘘つきかもしれない。人も疑うけど同時に自分も疑う。間違いを犯して大失敗する前に。(ただし、人間の思考から、この先入観をまったく取り除くことは不可能でしょう)

例外中の例外
 世の中でよく話題になることとして、極貧の家庭環境で生まれ育った者が努力の末大金持ちになった。あるいは政界のトップにまで出世した。また身体に大きなハンディを背負った人が実業界の要職に就いた。ある分野で優秀賞を受賞した。そういう話がマスコミで大きく取り上げられます。「そうか、こんな逆境の中でも立派になった人はいるんだ」。もしあなたが今同じような逆境を味わっていたら、これらの話題は自身にとって大きな励みになるでしょう。自分にもその可能性はある。この逆境を乗り越えられる。希望が持てるわけです。
しかしこれらは単なる一例に過ぎない。世の中にはこういった話も確かにあるでしょう。100万人の人間がいたら、その中に一人ぐらいはこんな例もあるのは当然。自分もそうなれるとは限りません。貧困が出世する要因でもなければ、身体のハンディが表彰される要因でもない。
ただし、貧困で育った者は所詮立派な人間にはなれない。身体に障害を持っていたら表彰されることはない。というのは明らかに間違えです。これこそ卑しい偏見です。こういう愚かな思考は、自分も他人も不幸にするでしょう。何々だから何々。とは言えない。世の中そんな単純ではありません。

結論:社会のあり様すべてを、完全に調査・分析することが不可能である以上、社会科学上の調査の結果は、ある時点のある限られた人たちの傾向であって、それは普遍的真理とはいえない。

最後に、自然科学、社会科学共通の考え方として、現実を正しく認識する上で、科学者一般人に限らず有用な、思い込みに捕らわれないための思考方法について考察します。
人間の心理としては、判らないことをそのまま放置しておくことに誰でも不安を感じるものです。そのため、人間はある思い込み的な判断を下して、それによって安心を得る傾向性を持つのです。
例えば、思考の結びつけとして、Aという現状を確認した結果、Bであると結論付ける。あるいはAと対立するCという現状を確認した結果、Bとは異なるDであると結論付ける。つまり”AならばB”ということ。ただし、この”AならばB”はいつでもどこでも成り立つわけではない。この特殊な地域で、特別な今という時代だけで成り立つ。つまりは例外的に成り立っているのかもしれない。(補足2)
さらに、今目の前で起こっているある事象がAに属するのかBに属するのか?簡単にそれは”A”であると言い切れない。現実はそんなに単純ではない。Aという概念もBという概念も、現実そのものを忠実に表したものではなく、一種の単純化、抽象化されたものである。しかし人間はあいまいなことに我慢ができないため、AとBが反対の関係とするならば、必ずどちらか一方に入れていしまう。(カテゴリー化してしまう) (どちらにも入る。あるいはどちらにも入らない。という状態を解消したいため)
そこに誤謬や齟齬が生まれるのです。しかも、人間はできるだけ早急に答えが欲しい。そのために情報をあまり分析せず、あるいは全体を考察せず、簡単に結論を導いてしまう。
しかし誤謬や齟齬を完全に取り払うことは不可能です。なぜならこの宇宙で起こっているすべての事象を把握することなどどうしても無理だからです。要は誤りと気付いた時点で修正するのです。この修正作業は永遠に終わりません。仕方がないのです。人間は全能ではありませんから。
ここで人間が陥りやすい”思い込み”の例を挙げておきます。何を正しいと判断してしまうのか?
・そうあってほしいという自分の願望に即しているものは正しい(注1)
・人生を悲観的にとらえる人にとっては、悪い結果の方が正しい。つまらない結果の方が正しい(注2)
・よくありがちなこと。テレビや大勢の人が言っていることは正しい
・今までこうだったから、これからもそれは正しい
・何事も原因は必ず特定できる
・結論を急ぐあまり、正しいと思えることを肯定する情報のみ選択し、否定する情報は無視する
・今までの経験から身に着けた個々人が持っている思考パターン(注3)を疑いもなく踏襲する
(注1) 宇宙人はいる。(いてほしい) 死後の世界は存在する。(存在してほしい)
(注2) きっと試験には落ちるだろう。どうせ彼女には振られるだろう。いやいや、そうとは限りませんよ。世の中あり得ないようなことだって起きるのです。
(注3) いくつかの単純化された思い込みの組み合わせを思考パターンとして持っている。例えばNさんの場合は、”AならばB”と”CならばD”の二つですべてを判定してしまう推論上の癖がある。

(補足1) 例えば日本人100人を調べて、一人残らずみな勤勉だった。しかし、だから「日本人は勤勉だ」とは言えません。残りの99,999,900人はみな怠け者かもしれない。

(補足2) ある意味この世界の事象はすべて例外なのです。しかしその例外に適応される観念”AならばB”が実際成り立てば問題ないでしょう。ただし、この”AならばB”が他でも適応できるかどうか保証はありません。

 さて、これから社会科学の話題について述べていきたいと思います。そこで一点注意を、あらかじめお話しておきます。この社会科学の各コラムでは、政治・経済のモデル、政治なら国家体制や法律、経済なら、経済システム、税金制度など、これらについて例を挙げて説明していますが、これはあくまでも青山個人が考案した(想像上の)モデルです。実際この世界に存在する国家体制、法律、経済システム、税制度のことを言っているのではありません。その点だけはどうか誤解のないようお願い致します。

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