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死後の世界


死後の世界は100パーセント存在しない

 この青山が、恐らく世界で初めて、なんと!!死後の世界が存在しないことを証明しました!! ほんまかいな??
「どうして死後の世界が存在しないと言えるのか?その理由を言え」とおっしゃるなら、逆に死後の世界が存在する根拠を教てくださいよ。まさか臨死体験だと言うんじゃないでしょうね?臨死体験は死んだ人間の証言ではありませんよ。あれは生きている人が話しているだけです。死んだ人間は何も語れません。(補足1)
死後の世界が存在しない根拠は、例えば今ある人が息を引き取ったとしましょう。その息を引き取った前後において、質量もエネルギーも情報も何一つ増えてもいなければ減ってもいない。これを仏教では「不生不滅」(何も生じなければ何も滅しない)と言い、物理学では「質量保存の法則」とか「エネルギー保存の法則」とか言っています。もしここで少量ながらもエネルギーが減ったなら、それはどこへ行ったのでしょうか?もっとわかりやすく言えば、死体が突然消えてどこかへ行ってしまったら、それこそ亡くなった方が肉体ごと別の世界に行ってしまったのです。科学的に言えば死はあくまで物理化学現象に過ぎないのです。ただ状態が変化しただけです。人が死んでも死体は残る。その残った死体をその人物だとは見做さないなら、死は完全にその人物の消滅を意味します。即ち死ぬということは無になることです。
ところが今まで数えきれない程の人間が毎日のように死んでいるのに、そのように死体がどこかに消えてしまったなどと言う事例は一つも確認されていません。(後になって棺桶を掘り起こしてみたら、いつの間にか死体が消えていたという逸話はいくつか残っていますが) 人が死亡したという事例はたくさんありますが、全て例外なく、この不生不滅の法則は成り立ちます。(補足2)
すると死後の世界を肯定する人は次のように反論するでしょう。「確かに肉体は滅びる。しかし人間は肉体と霊魂からなり、霊魂は永遠に滅びない」と。
目に見えない霊魂がどうして存在することが分かるのか知りたいですが、では、死後の世界肯定論者の考えに従って、人間は肉体と不滅の霊魂からなると仮定して話を進めましょう。
またある方はこう反論するかもしれません。「死後の世界があるかないかなんて死んでみないと分からない。にもかかわらずどうして死後の世界はないと断定できるのか?」と。確かに青山は死んだ経験はありません。青山どころか誰一人として死んだ経験などないのです。だから死後の世界があるとの主張もおかしいですよね。青山は、もし死後の世界が存在すると仮定すると、世界に矛盾が生じることを根拠に死後の世界を否定しているのです。

前提条件1:人間というものは肉体と霊魂からなり、肉体が死ぬと、霊魂は肉体から離れて死後の世界に赴く。霊魂は決して観測されることはない。霊魂はエネルギーを持たない。なぜならこの世界においてエネルギーは保存される。無から突然発生したり、突然消滅したりはしない。これは観察された事実に基づいた法則である。従ってもし霊魂が何らかのエネルギー有しているとしたら、それが死後の世界に行った時点で、この世界からエネルギーが消えてしまったことになる。これは自然法則に反する。また仏教でいうところの「不生不滅」にも反する。霊魂がエネルギーを伴わないとすれば、何らかの作用(霊魂による発光、ラップなどの現象)は起こらない。

前提条件2:死後の世界に赴いた人間は自分が自分であるという認識(自意識)を持っていること。そうでなければ死後の世界そのもの(確かに死後の世界に行った自分自身)を認識できない。亡くなった者たちは皆自分が死んだ者であり、ここが死後の世界であることを認識できる。そうでなければ死後の世界など存在しないのと同じことになる。

前提条件3:死後の世界はこの世界に存在する者全てが死ぬと行くところである。従って人間だけではなく犬も猫も植物も細菌も全ての生き物が死んだら同じ死後の世界に赴く。その際既に死後の世界にいる者は、何が今自分のいるこの世界にやってきたのかを認識できる。たとえば自分が死んだ翌日、飼っていたペットの犬が死んだら、この死後の世界に来たことを何らかの方法で知る。知ることによってこの場所が死後の世界であることを認識できる。ペットの犬は肉体をもっていないのであるが、(既に目も耳も失われているのであるから)この世界のような視覚や聴覚で存在や事象を捉えるのではない。いかなる仕組みに因るものかは不明である。ただし目や耳は無くても、生きていた時と同じような視覚や聴覚を使って存在や事象を捉える。

死後の世界の条件:我々生きている者にとって、この世界を現世(現実世界)と呼ぶ。現世で亡くなった者は全て死後の世界に赴くのであるから、この現世の情報が死後の世界に伝達されることはあっても、逆に死後の世界の情報は現世に一切伝達されない。実際に我々は死後の世界を観測すること(見ること)ができない。(ただし一部の自称霊能者は除く)
もし、死後の世界とこの現世が何一つ情報のやり取りがない。全くの無関係の存在であるなら、死後の世界の存在を論ずること自体が無意味であり、形而上学的な問題になってしまう。すなわち科学では扱えない。つまり死後の世界は、「あるともいえない」し「ないともいえない」。
ただし、死後の世界とこの現世が一方通行であるにせよ情報の伝達があるという点がポイントである。その存在性を考察することも無意味ではないということです。
さて、この一方通行の情報の伝達が矛盾を引き起こさないでしょうか?「矛盾があってもいいじゃないの?だって霊の世界なんだから」と言う話であれば、もう何でもありです。死後の世界を「パンダの国」に仕立ててもいい。「どうして人間は死んだら皆パンダになるんだ?」理由なんかなくてもいいんです。矛盾したっていいんです。だって死後の世界だから。

1、死後の世界の否定の証明

以上についてまとめると、以下のとおりになります。

(仮定1) 情報は一方通行
死後の世界と現世の間の情報のやり取りは、現世から死後の世界への情報伝達は可能。逆に死後の世界から現世への情報伝達はない。

(仮定2) 現世における全ての情報が漏れなく死後の世界に伝達される
死後の世界に赴いた者は、自分が死後の世界に来ていること、つまりここが死後の世界であることを認識できなければならない。自分の後に死後の世界に来た者を、それが何者かを認識できるためには、現世における総ての情報が死後の世界に伝わる必要がある。

(仮定3) 死後の世界では肉体は存在しない 現世で破壊されているから

(結論) 以上の仮定から因果律的に死後の世界において矛盾が生じるならば、死者は死後の世界を確認できない。即ち死後の世界は存在しないに等しい。
例えば現世で雨が降るという事象に対して、死者は同じように雨を視覚によって(目を使わずに)捉えることができる。「あっ雨が落ちてきたな」と言う具合に。同時に雨が頭に落ちて「冷たい!」と感じる。もちろん雨は死者の頭でさえぎられることはない。なぜなら死者の頭(肉体の一部)は失われているから。
しかし肉体は無くてもあなたには視覚も触覚もある。そこで矛盾が生じます。雨が頭に当たったのを(視覚によって)確認した自分が、同時に触覚によって「冷たい!」と感じるのは矛盾ですよね。なぜなら頭は存在しないから。(補足3)
ここで注意してほしいことは、死後の世界が捉えられない(科学的に証明されない)のは、我々の知識が低いから、あるいは我々が無能だからではありません。原理的に(将来どんなに科学が進歩しても)死後の世界を証明することは不可能。量子力学で位置と運動量を同時に測定できない(これを「不確定性原理」と言います)のは、我々の測定技術が低いからではなく、原理的に不可能なのと同じことです。

2、関連証明

合わせて以下の2つのことが証明できます。

(1) (任意の人間の)不滅の霊魂が存在することを証明することは不可能である(仏教の諸行無常が正しければ)

(2) 完全に死んだ人間を蘇生させることは不可能である(エントロピー増大の法則が正しければ)

簡単に証明できるのが(1)です。たとえば鉢植えに花を植える。同じ種の花で鉢も同じであれば、区別がつかなくたると困る。というわけで鉢植えにマーカ(目印)をつけたとしましょう。しかし諸行無常によりマーカ自体が変化するから、成長した花が、以前はこの花だったとは断言できない。まして目に見えない霊魂にマーカをつけることなど不可能です。つまり霊魂が不滅であり個性を持っているということを確認する方法が存在しない。
(2)は時間は逆転しないから、死んだ人間を生き返らせることはできない、というものです。

死後の世界がないなら、我々は亡くなった人に何もしてあげられません。よく慰霊とか、鎮魂とか、ご冥福を祈ります。とか言いますよね。いかなる慰めも、冥福つまり死んだ後の幸せを祈っても、死後の世界がないなら無駄な行為。やりたい人は勝手ですが、関係ない第三者にまで黙祷(死者のために黙って祈る)を強制するな。黙祷を捧げても死者に対しては何の慰めにもならない。死んだ人間が「うれしい。うれしい。ありがとう」って喜ぶと思いますか?だって死んでるんですよ。死後の世界なんてないんです。
青山はそんなことはしません。それはごまかしに過ぎないと思います。たとえば墓参りをして花を供養として手向けても、亡くなった人が喜ぶはずがないでしょ。本当は死んだのに生きていて欲しい、ありえないことを期待する、一種の甘えた考え方です。今頃になって、「生きているときにこうしておけばよかった」、「こうしてあげればよかった」と後で後悔しても始まらない。今さら何をしても手遅れです。(補足4)
ただ、大切な人、愛する人、家族を亡くした方がよく「亡くなったあの人はわたしの心の中で生きています」と話されますよね。それを聞いて青山は、その方の心情に対して「共感します」、「同情します」。馬鹿にすることは決してありません。慰めとは死者に対する慰めではなく、あくまで大切な人を失った人にとっての慰めです。それならもちろんこの青山にもわかりますよ。
愛する人を亡くされた人に向かって、「死んでしまったものはどうにもならない。存在しない者のことなんか早く忘れた方がいい」などとは決して言いません。故人のことを無理に忘れる必要は全くありません。忘れられないならいつまでも心に留めておけばいい。愛する家族を失った場合など、生きていたときと同じように共に生活をして、呼びかけてあげればいい。死んだ人間に向かって会話をするなどおかしなことだとは思いません。特に子供に先立たれた親の気持ちとしてよくわかります。
逆に無理に覚えておく必要もないでしょう。特に自分と親交がない他人のことなど。またこれは青山個人の意見ですが、それ相応の年齢で亡くなった人(この歳になればいつ死んでもおかしくない)、例えば親や祖父母などは自分より先に死ぬのは当り前ですから、いつまでも覚えておく必要はないと考えます。いつか忘れてしまっても構わない。人は誰であっても(どんな有名人でも)、いつか人々の記憶から消え去る運命にあるのですから。
死後の世界が存在するのか?もちろん自分一人が信じる分には何の問題もありません。問題なのは何一つ根拠を示さずに、他人に向かって死後の世界を信じるように促すことです。
明らかに間違っている考えとして「生まれ変わり」や「輪廻転生」(上記関連証明の(1)から、この人間の前世がその人物だと特定することは不可能)など、よく話題になりますよね。何一つ証拠はないから、「わたしはイエスキリストの生まれ変わりだ」といっても誰も否定出来ません。
「輪廻転生」の良くないところは、「今不幸(あるいは貧乏)なのは、あなたの前世での行いが悪かったから」とか何とか言って相手の精にすることです。記憶もない生まれる前の世界がある訳ないでしょ。(補足5) 何を根拠にそんな馬鹿げたことを言うのか?そんな話を聞くと不愉快な気分になりますよね。(もちろん不愉快だからといって、証拠が出れば真実として認めざるを得ないのも確かです)
この「前世の報い」などと言う人に向かっては、「あなたの過去(未来じゃないよ)は、この青山の一存で決定する」と言ってやりましょう。
この心は、(極端な話で済みません)もしもの話、青山があなたの家族を皆殺しにして、あなたの家屋財産全てを焼き尽くしたとしたら、当然あなたは悲しむでしょう。そこであなたがこの憎っくき青山を死刑にする。そのときの喜びによってその悲しみが相殺されますか?それとも悲しみは残るでしょうか?普通なら憎い犯人を死刑にしたところで、悲しみが消えるはずはないと思います。「前世の報い」を信じるあなたはきっと自分が過去にとてつもない悪事を働いたから、その報いを受けたと納得するのでしょう。この青山が犯罪を犯すか犯さないかは青山次第です。青山が犯罪を犯せば、あなたの前世は悪だったことになり、犯さなければ、あなたの前世は悪じゃなかったことになる。そんな馬鹿げたことがありえますかね?こう言えば「前世の報い」などと主張する人たちはぐうの根も出ないでしょう?
宗教の中には、不幸な人を捕まえて、「あなたが今不幸なのは前世の行いが原因」などと教えるものがありますが、みな誤りです。あなたが不幸な原因は、世界の方にあるのです。悪いのは、社会です。政府です。あなたではありません。(補足6)
あるいは逆に今世の中で成功している著名人、活躍している有名人は、前世で努力したから、あるいは試練に耐えたから、なんて話も嘘です。この世での成功なんてものはみな偶然です。騙されないようにしましょう。(図3「輪廻転生における因果業報」参照) (補足7)
宗教の中にも「死後の世界」の存在を教義の基本としてきたものがあるでしょう。もしも死後の世界などないと分かれば、その宗教は土台から崩れ去るでしょう。
大体、死後の世界とか、良いことをしたら天国へ、悪いことをしたら地獄へ行くなんて、余りにも幼稚な考え方ですね。
ただし、ここで述べていることは、我々生きている人間にとっての死後の世界(我々にとって亡くなった人が赴く世界、我々はあくまで生きている)が存在するかしないかについての考察です。自分自身が死んだ場合その先に何か世界があるのか、そこまで否定しているわけではないのです。
留めておいてほしいのは、他人の死と自分の死は全く違うものだということです。自分が死ぬときはまた別の世界があるかもしれません。それこそ死んだ者ではないと解らないことかもしれませんが、その話はまた後ほど。

(補足1) 臨死体験と死後の世界はまったく関係がありません。臨死体験は生死をさまよった人が必ず体験するものではありません。体験しない場合の方が多いのです。さらに臨死体験の内容はさまざま。人によって異なります。ただし、その中でも特異な体験もあり、精神医学上興味深いため、また後ほど取り上げたいと思います。
結論から言えば、臨死体験は脳内現象でほとんど説明が付きます。つまり普段われわれが見ている夢と本質的に同じです。ただし、説明がつかないものも中には(わずかですが)あります。もし、非常に驚くべき事象(例えば臨死体験者がいわゆる体外離脱を行い、過去や未来、あるいは他の惑星の様子を見てきた。後になってそれが全て事実であることが証明された等)が確認された場合、現代科学の常識が覆されることになるかもしれません。ただし、だからと言って、霊の存在や死後の世界が証明されたわけではないことに注意しましょう。

(補足2) 人間の「死」というものを厳密に定義することは難しい。心臓の鼓動や呼吸が停止したことをもって「死」と言えるでしょうか?一時的に停止しても、人口呼吸などによって蘇生した例も多々あります。「死」とは二度と蘇生しないことを言います。心臓や脳が機能停止しても、身体を構成している全細胞が一斉に死ぬわけではありません。ただし、いずれ酸素等の供給が止まれば細胞は皆死ぬでしょう。いずれにしても「死」とは、物理化学現象なのです。その死の前後で、エネルギーも全質量も何もかも変化しません。それが自然科学の法則です。つまり「不生不滅」、「不増不減」(これも仏教用語で、何事も増えたり減ったりしないという意味)です。ただし、完全に死んだ細胞、腐敗が始まった組織、あるいは火葬後の遺骨を指して、これを○○さん(生きていた時の名前)とは言わないでしょう。では、○○さんはどうなったのか?「無」になったのです。科学的にいえば死とは単なる”状態の変化”ですが、その変化をもって、(エネルギーや原子は残りますが)”○○さん”は存在しなくなった。つまり「無」になったというわけです。

(補足3) 死者は現世における情報、例えば雨が降っている様子を視覚や触覚で捉える。もし死者は五感以外の超感覚でそれを捉えるとしたら、その超感覚とは何か?もし我々がそれを理解できないのであれば、我々は死者を捉えられない。我々生きている人間と同じ意識を持った死者のみ我々は捉えられる。我々が死者を捉えられなければ、同時に死者の世界(死後の世界)を理解できない(観測できる訳ではないという点に注意)のなら、我々にとって死後の世界など無いに等しい。
先日亡くなった、つまり死後の世界に赴いた人を仮にAさんとしましょう。死後の世界を理解するためには、我々はAさんになったつもりで死後の世界を捉えてみなければなりません。ところがもし死後の世界では我々に備わっている五感以外の第六感を使うとしたら、我々はそれが何なのかを理解できない。つまりAさんにはなりきれない、イコールAさんのことは解らない。Aさんのことが解らないということは、死後の世界を捉えられない。捉えられない死後の世界が存在したとしても、それは我々にとっては存在しないに等しいのです。

(補足4) 亡くなった人(特に自分の親とか)に対して、生きているうちに、例えばここに(旅行に)連れて行ってあげたかったとか、後からつくづく思うことがあります。死んだ後では親孝行もできませんからね。世間では「孝行したいときに親はなし」と言われます。ただし連れて行きたいところは一カ所や二カ所ではないはず。世界中の観光地すべてに連れていくことなどできません。生前にしてあげたかったことなども、考えたら切りがない。あれもしてあげたい。これもしてあげたい。など尽きることがない。そこにあるのは故人に死なれたくなかった、永遠に生きていてほしいという思いだけです。これは仏教でいえば死者に対する執着です。
よくある話として、何か良くない不幸が続くと、人は藁にもすがる思いで祈祷師などを尋ねる場合があります。そこで、「先祖への供養が足りないから」と、お祓いを勧めたりお墓を買わせたりする。先祖なんか皆死んでいて既にこの世にはいないのだから、何をしてあげても無駄です。こんな「先祖への供養が足りない」なんて話はみなインチキ霊能者たちが金儲けのためにこしらえた嘘です。もしそれが本当なら、科学的根拠を示してほしいものです。こんな人の弱みに付け込む商売は断固排除すべきだと思いますよ。
ただし、人生には自分の力で解決できないほどの困難に直面する場合があります。それは誰にでも起こることです。霊能者にすがった人に対して、「なんでこんなことに騙されるんだ」と非難することは簡単です。人間は皆心の弱い生き物です。もしあなたのそばにそんな困っている人がいたら、(無論金儲けなどを考えずに)心の支えになってあげてください。ただし真にその人の幸せを願うのであれば、あくまで現実的な解決方法を(自分が押し付けるのではなく)相手に考えさせるのです。

(補足5) よく幼児・子供が、前世(誕生前の記憶)を持ち、話せるようになってから、「自分は前は、こうこうこういうところにすんでいた○○だ」と言い出して、調べてみると確かにその人物は存在していた(過去生きていたが既に故人)。それが事実と一致して”輪廻転生”は本当にあるのか?と話題になることがありますよね。人間はある年齢期(話しだせる頃)に、自分と他人の区別がつかなくなることが幼児には見られます。それは「発達心理学」を知っている人なら常識です。しかもこの時期、幼児の記憶はまるでテープレコーダーのように驚くほど正確に記憶する場合もある。
問題は、前世の人間の過去を記憶していることではなく、その人間になってしまうことです。もし前世が40歳で死亡したサラーリンマンなら、3歳児が背広を着て会社に出かけ、仕事を熟せるはずです。そんな例は一つもない。(朝目覚めたら自分の意識以外は(身体も家庭環境も)3歳の子供になっていたらと想像してみて下さい。)

(補足6) ただし、いくら悪いのは社会だ。政府だといっても、あなたが何もしなければ事態は改善しません。あなたが声を上げるのです。被害者は自分なんだから周りが何かをしてくれる。そう思ったら大間違いです。黙っていても誰も何もしてくれません。例えば、あなたが強盗にあって、財産すべてを奪われても、警察に届けない限り、あなたがその強盗に財産を与えたものと、世間はみなすでしょう。

(補足7) この図3で特に注意したいのが、AさんBさんの二人の(あるいはそれ以上の)人物がいた場合、その責任はどっちにちあるのか?どこにどう境界線を引こうが、責任の分界点なんか決めようがないということです。Aさんが不幸に見舞われた。(例えば、Aさんが自動車事故の被害者、Bが加害者) その場合Aさの損害はどっちの責任なのか決めようがありません。

 死後の世界はない。死ねば”無”になる。”死んだら終わり”。そう言うと、生きる意味を失いネガティブな人生になるとして、この死後の世界を否定する考え方に反発する人もいますが、よく考えてみましょう。あなたは現在死んでいるのですか?それとも生きているのですか?死んでいるなら何も言いません。しかし生きているなら、どう生きるのか、今何をすべきかは、あなた自身の課題です。あなたはこの世で生きている限り、”生きる”ことしかできなのですから。

■最後に
 青山が言いたいことはこうです。死後の世界を信じる信じないはあくまで個人の心の問題。それを否定することはしません。
何度もいいますが、自分一人で信じる分には問題はない。問題なのは何の根拠も示さず、他人に向かって、死後の世界を信じなさい(つまり聞かれてもいないのに死後の世界はある)と断言すること。
青山としては、わざわざ他人の心の中まで侵害することが許せないのです。もし本当に死後の世界があると言うなら、科学的な証拠を提示してほしいだけです。
われわれは科学の議論をしているのであって、観測不可能な人の心の問題を議論しているわけではありません。科学を解さない者と議論をしても無駄なだけです。そんな暇はこの青山にはありません。
すると肯定論者はこう反論するかもしれない。確かに死後の世界を証明することはまだできていない。しかし死後の世界が存在しないことも証明できていないはず。したがって他人に向かって「死後の世界は存在しない」とも言えないのではないか?
肯定論と否定論、共に証明されていないから対等だという考え方は大きな誤りです。
死後の世界が存在しないことは証明してますよ。あなたがそれを理解できないだけでは?青山が前提とした条件が不満ですか?それでも死後の世界が存在しない根拠は提示しています。(補足8) それに対して死後の世界が存在する根拠は一切提示されていませんね。
あなたが死後の世界を肯定するなら、人間は肉体と霊魂からなり、霊魂は観測に掛からない。なぜ掛からないのかはこういう理由である。つまり霊魂とはこういう性質のものだ。という仮説をまず最初に出してください。その仮説が現実世界と矛盾せず、かつ何らかの根拠を持ち、なおかつ否定されていなければ、肯定論と否定論は対等です。実験によって否定されない限り肯定論は残るのです。(ただし、その仮説は反証可能でなければ駄目。つまりこういう実験をしてこういう結果がもし得られるのであれば、その説は否定されるというもの。である必要があります) (補足9)
たとえば、霊魂は現代物理学を超えた理論に基づく。なら、その「現代物理学を超えた理論」っ何ですか?仮説でいいんで提示してください。
ところが肯定論者は仮説すら出さない。まったく仮説がないものとあるもの、死後の世界肯定論と否定論が対等に議論できるわけがないのです。否定論者は、肯定論者が現実に基づいた何らかの仮説を出すまで相手にしない方がいいかもしれません。
ただ死後の世界が科学的に否定されたとしても、信じてはいけない理由はありません。信じている人の心の中まで侵害するつもりはまったくありません。それだけは最後にお断りしておきます。
  
(補足8) 死後の世界に赴くということは、いわば物体が部屋Aから壁を隔てた隣の部屋Bへ移動することにたとえられます。もしAからBへ移ったなら、Aでそれは消滅して、Bでそれは現れる。つまりAでもBでも何らかの変化が生じることになります。これが原因と結果の法則(因果律)です。もし何も変化がないとしたら、別の世界にそれが赴くということもありえません。

(補足9) 科学とは仮説を立てて、それが現実に適合しているものかを考察する。考察する上で不適合な点は修正が加えられる。つまり仮説は絶えず変化する。その過程で真理に近づく。この営みこそが科学である。

 前コラムとこのコラムにおいて、科学的な立場から神の存在と死後の世界の二つを否定しました。科学的な態度とは、ずはり「観測されないものは存在しないに等しい」という科学の基本原理に従うことです。もちろん観測できないからといって存在しないとは言い切れません。神と死後の世界を否定した青山にとっても未だに証明できていないものがあります。それは「白いカラスが存在しないこと」の証明です。

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