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超常現象と科学


 人間には誰にも、「ああなったらいいな。こうだったらいいな。」と言う願望があります。
それは大人も子供も関係ありません。「もし、宇宙人がいたら・・・」、「もし自分に未来を予知する能力やテレパシーなどの超能力が備わっていたら・・・」
人間は夢や願望の虜です。ただし世界は、人間の願望通りに存在しているわけではありません。

世界は絶対にこうだとは言えない。宇宙人や超能力など、そんなものは存在しない。とは必ずしも言えない。自分が抱いていた常識の方が間違っている可能性もなきにしも非ず、です。
人は何を信じるのも自由です。宇宙人はいる、ネッシーはいる、雪男はいる。ただし、もし他人に信じてもらいたかったら相手を納得させられるだけの証拠が必要です。

科学で重要なことは物的証拠。
UFOや予言、超常現象は面白いし楽しい。この青山も子供の頃から大好きです。ただし、好きだと言うのと実際にそれが存在するのかと言うのとは別。
現実にあり得そうなことと、あり得そうもないことがあるのです。よくよく考えてみる必要があるかと思います。考えなければとんだインチキを信じることになるでしょう。科学の姿勢として何事も鵜のみにせず、疑いの目を持つことが肝心です。
デマやインチキに騙されないためにも、普段から有り得そうなことと、現実に有り得そうもないことの区別をつけられるように。思い込みではなく、あるいは願望ではなく、客観的事実に基づいて、自分自身で考えることを学んでおく必要があるかと思います。
以下はあくまで青山の私見ですが、超常現象と言われるものについて個人的な考えを述べてみたいと思います。皆さんと考え方が異なったら、遠慮なくご意見をください。

1、 UFO・宇宙人(注)
この宇宙はとても広大であり、銀河系だけでも何億もの星が存在する。その中に生命の生存に適した星があってもおかしくはない。さらにその中には、知的な生命体(人間に似ているとは限らない)が存在しており、それが地球を訪れている可能性もゼロではない。
「いや、光の速さでも何千年、何万年かかる。そんな遠方から来ることなど不可能」と言い切れますか?
それは単なる地球人の無知からくる思い込みである。人間の思考を遥かに超えたテクノロジー(もしかしたら人間より何万年も何億年も進んでいるかもしれない)によれば、宇宙の隅から隅へ移動することなどいとも簡単かもしれない。
「では、なぜ宇宙人たちは、地球人と接触を試みないのか、あるいは過去地球を訪れた時に、何らかの証拠を残さなかったのか?」もし人間が他の惑星を訪れた際、そこにアメーバ状の生物だけを確認した場合、その生物に対して友好的に握手を求めるだろうか?もしかしたら地球を訪れた知的生命体と人間との間には、現在の人間とアメーバほどの違いがあったのかもしれない。
もしそのような場所に自分たちよりも遥かに原始的な生物を確認したら、その生物とどのように接するだろうか?つまり自分たちの存在に気付かせず、自然のままの状態で観察する。だから何一つ痕跡を残さなかったのかもしれない。
もちろん宇宙人が地球を訪れている。あるいは過去に訪れたという物的証拠は一切存在しない。これは単なる想像上の仮説に過ぎません。
ただし、よく話題になるような宇宙人が円盤型の宇宙船で訪れているなどということがあり得るでしょうか?あんな円盤みたいな原始的な乗り物で来るとは考えられません。
また、よく話題になる小人型の宇宙人を見て、これじゃ猿より下等に見えるが。その宇宙人の乗った円盤が度々墜落する。地球人でもやらないヘマをなぜするのでしょう?
どう考えても円盤や宇宙人は人間の想像力が作り出した産物のようです。
仮にあのような宇宙船と宇宙人がいたとしても、間違いなく有り得ないことが。それは宇宙人たちが我々人間に何らかのメッセージを伝えようとしていること。余計なお世話です。もしメッセージ(警告)を伝えたければ、堂々と姿を現してはっきりと伝えるはずですが。
(注)ご存知の通り”UFO”は「未確認飛行物体」と訳され、”宇宙人の乗り物”という意味はありません。そういう意味では、空にある物体は未確認のものもありますから、UFOは確実に存在するでしょう。

2.、未確認動物(ネス湖の怪獣)
恐竜が現代まで生き残っていたとしても進化論的には何の不思議もない。シーラカンスだって古代の姿のまま生き残っていたのだから。
ただしあのよう大型の動物が隔離された湖に生息しているなんて有り得るでしょうか?
巨大な体を維持するためには大量の食物を必要とします。一頭だけでは子孫を残せないから、それなりの数で群れをつくっていると思われます。死骸などの痕跡もあるに違いありません。その巨大生物が存在しているのとしていないのでは、湖の環境の違いは顕著です。

3、幻影(幽霊)
皆さんは子供のころ不思議なものを目撃した経験はありませんか?たとえば妖精。その時は確かに見たと今でもはっきり覚えているでしょうが、大人になってからは一度も目撃していない。きっとあなたの心が純粋さを失って、存在しているのに見えないのかもしれません。大人に見えないものがどうして子供には見えるのでしょうか?それは子供はまだ世の中に対する知識が浅いため、本当は不思議でもなんでもないものを理解不能な存在として記憶に留めるからでしょうか?
子供に見えるものが真実なのか?大人に見えないものはやはり実体ではないのか?もし客観的な実体がそこに存在しているのなら誰もが確認できる何らかの物的証拠が残るはずです。それが無いということはやはり存在はしていないようです。(補足1)
今ネットに出回っている心霊写真や心霊動画など、青山にとってはほとんど皆偽物としか見えません。(カメラの構造によるもの、光学現象、影や模様が人の顔に見えるなど。厄介なのは故意に映像を合成させた作為あるもの)
近頃特に多いのは偽造写真、偽造動画です。デジタル技術によって、心霊写真や心霊動画などごく簡単に作れてしまう。それをネットに投稿するものが増えているようです。匿名を名乗り、名を明かさず顔も出さず、責任を追及されるのを恐れているのか?こういう類は、科学の純粋な研究からすれば迷惑千万なのです。なぜ名もなき素人がこのような捏造をして喜んでいるのでしょうか?そこには単調で面白くもない日常を脱し、世間を多少なりとも驚かせることによって一人悦に浸る、詰まらない人生に変化を持たせたいという心理が働いているのでは?青山の関心は心霊現象そのものにはなく、もっぱらそれを捏造する人間の心理にあります。もしも本当に霊が我々に訴えたいのなら、白昼堂々と姿を現すでしょう。それがいつもぼんやりとはっきりしない姿で現れるのは、それを霊だと我々が勝手に解釈しているに過ぎないのです。

4.、未来予知(ノストラダムスの予言)
16世紀の人間が400年も500年も未来のことに関心を持つなんて考えられませんね。その頃まで生きているわけないんですから。ノストラダムスにとって一番の関心事は今日の夕飯は何かでは?
大体500年も前の人間が、現在の映像を目の当たりに見ても、それが何なのかを理解することなどできません。仮に現在ある街の片隅で起こったボヤの燃えさ盛る炎を500年前のノストラダムスが見て、世界の終末を連想してしまったのかも知れない。火事の幻影(夢)など、ノストラダムスでなくても見ますよね。
予想だったら誰にでもできます。例えばバス停でバスを待っているとして、何時何分にそこにバスが到着するのか。予想通りの時刻にバスが来たら予言的中という訳です。だって時刻表にそう書いてあるもん。ただし外れることもありますね。道路渋滞とか。それは予言も同じ。当たることもあれば外れることもあります。予想は誰にでもできます。
一番予想しやすいのは天体の動き。星の運動は速度がほとんど変化せず一定だからです。何月何日土星は何座の方角にある。しかし惑星の動きと社会情勢は何の関係もありません。それは歴史が示しています。
昔の占い師やイタコなどは、それはそれなりに社会的価値がありました。いわば悩みを持って訪ねて来る人のカウンセラーです。だからちょっとした忠告しかしない。その代わり報酬もお茶一杯とか。それでお互いが満足でした。
預言者や霊能者と言われている者は経済的に裕福な者は少ない。昔から予言者が為政者などにもてはやされたら(財産を得るようになったら)それは国の崩壊を意味していました。(ヨゼフ、ダニエル、安倍晴明など)
要するに、ノストラダムスだろうが誰だろうが完全に未来を予言することは不可能。夢の中の出来事を目が覚めてから文章に書き残した。それを後世の人間が独自に解釈して偶々当たったからと言って、そこに意味などありません。どんな予言でも解釈次第でどうにでもなるものです。

5.、テレパシー実験
人間には五感を超えた未知の感覚(第六感)がある。そして遠く離れた人と意思を通じ合わせることができる。よく虫の知らせというものがありますが、それです。
テレパシーは昔から度々実験されてきたにもかかわらず、一向にその正体が不明なのはなぜでしょう。(有名なESP実験)
こういう実験をすると、100発100中正解と言うことはまずない。ただし、数多くの統計を取ると、確率よりもわずかに有意な値が確認されると言います。つまり偶然以上の何らかの効果が認められるというもの。それが未知の超能力かどうかは解りません。
しかし実験にわずかでもトリックが紛れ込んでいれば、データに偏りが生じることは明らかです。そのため一切の作為が入り込まない厳格な実験が望まれます。
アメリカでは、リモートビューイングという実験が実際行われていたという事実があります。要するに軍事目的のために敵の状況を遠隔透視する。それが可能かどうか?長年に及ぶ調査の結果は、「有意な実験結果が得られたが、実戦には使えない」というもの。(CIAレビュー報告) (補足2)
要するに遠隔透視とは、ドアを開けずに部屋の様子を透視するか、ただし不正確。もしくはドアを開けて部屋を覗き込み正確な様子を確認するか、のどちらかを選択するという問題になります。

果たして超常現象は存在するのでしょうか?もちろん科学には未知の分野が多数存在します。しかしそれとはまた別の問題です。
信じる信じないは自由です。だったらこうされてはいかがですか?自分が実際にUFOや幽霊を目撃したのなら信じる。今まで全くそういうものを見た経験がなければ信じない。信じている人が信じていない人を無理やり信じさせることはしない。逆に信じている人に対して信じるなとは言わない。

6、念力(スプーン曲げ)
・超常現象で物的証拠が残るものとして、昔はやったスプーン曲げがあります。
力学的な力を加えずにスプーンを曲げる。多くは根元のところで折れ曲がっていますね。そこは力学的に一番曲げやすいところです。へこんだ部分の真ん中で曲げたものなんか見たことがない。
テレビでよくスプーン曲げを実演する自称超能力者たちがいます。ただスプーン曲げは手品でもできますね。手品師の中には超能力者が行ったスプーン曲げをそのまま真似する者もいます。しかも本人は、これは手品だとはっきり認めています。片や超能力、片や手品。だから超能力者がそれは模倣だ、営業妨害だと訴えることはできません。
ここで手品師側にとってのポイント、手品の種を決して明かさないこと。そして念力なんかインチキだ。とは決して断言しないこと。本物かインチキかの判断は視聴者に委ねられています。(補足4)
もしかしたら念力というものが存在するかもしれない。仮にあなたにそういう能力が備わっていたら、周りは認めてくれずあなたは孤独かもしれない。しかしあなたは決してそれを商売の種にしてはいけないということ。なぜならあなたはどうして自分にだけそういう能力が備わっているのかを理解していないからです。もし理解しているなら、念力は科学的に証明されたことになる。さもなければインチキです。(補足5)
プロの詐欺師という者は、人の悩み弱みにつけこみ、あるいは恐怖心を利用して人を騙しても、それで稼いでいる(生活の種にしている)人間(=世の中にはまだまだ沢山います)には罪悪感など欠片もありません。

ただし、超常現象と言われるものでも、本物である可能性はゼロではありません。科学の研究はあくまで自由です。何を研究してもいい。UFOだって、ネス湖の怪獣だって、もしかしたら真実かもしれない。たとえ誤りだと分かっても、そこまで研究してきた努力は決して無駄ではなかったと思いますよ。未知への探究心は、どこまでも続く。科学はトライアンドエラー。その過程でインチキに引っかかる、ペテン師に騙されることもあるでしょう。こんな簡単なトリックに引っかかるなんて、と世間から笑い者にされる。しかしそれを恐れていたら何もできません。恥をかきたくないなら、失敗したくないなら、科学者なんかやめるべきです。(補足6)
科学者は時には恥をさらすことも厭わず、ただ未知への探究に向け、ただひたすら真摯に、誠実に。騙されたっていいじゃないか。思い切って渦中に飛び込みましょう。騙される科学者の方が、金のために宗教の広告塔になっている自称科学者よりもましだと思いますよ。(補足7)
当り前ですが、科学者だって人間です。願望や思いはあるでしょう。要はそれを偽らないこと、誤魔化さないこと。宇宙人がいてほしいい。超能力を身に着けたい。そういう願望を持っていてもおかしくはない。むしろ自然です。ただし、だからと言って、「宇宙人はいる」とはならない。中にはそういう願望を満たしたいがゆえに、事実をねじ曲げてしまう浅ましい輩もいます。(それがどんな些細なことでも)事実に反する行為を行った時点で科学者失格です。
人間誰しも思い込みがあります。その背景には先に述べた願望があるのです。その思い込みによってある種の先入観を持つ。その先入観に反する事実を認めることは精神的に耐えがたい苦痛。それは人間として当然。ただし、自分の思いよりも最終的に事実の方が勝るのです。
宇宙人にいてほしい。その背景にあるのは、地球外生命を探索して、もしそれが見つかった暁には、世界に向けてセンセーショナル的に発表を行い、周りから喝采を受け歴史に名を残したいという願望。逆に地球外生命などいてほしくない。その背景にはあるのは、今までの科学的常識を覆すことになる。それは自分が続けてきたこれまでの研究が無駄だったことになる。それを認めたくはない。いずれにしても科学者の態度ではありません。科学は結論ありきではありません。これから実際に調査して本当のことを理解するのです。何度も言う通り、科学の目的は人間の願望を満たすことではなく、真実を見極めることにあるのですから。

それはともかく、こういう超常現象を真摯な科学的態度で研究するか、もしくは最初からファンタジー(アラジンやピーターパンの世界)として扱うならまだしも、確たる証拠もないのにいかにも科学的な態度を装って、有名な大学教授風(自然科学系ではない)の知識人の意見を紹介したりして、あまり科学の知識がない一般人向けに宣伝する姿勢は、科学に対する冒涜であると言えますよ。そういうのを疑似科学と言います。
世の中が詰まらないからと言って、有りもしないことで話題を盛り上げようとする行為は低俗であり、詐欺か単に無知なのか、どっちかでしょうね。
確率的に非常に稀な現象でも、科学の法則に反しないことなら、それは確かに奇跡かもしれないが、あり得ないことではない。それに対して科学の法則に反すること、例えば人間が道具を使わずに空を飛ぶとか、あるいは完全に死んだ人間を生き返らせるとか、そのようなことは奇跡とは呼びません。もし自然法則が正しければ起こりえない。ということです。

 科学は事実しか扱いません。対象はあくまでも観測可能な現実です。幽霊や宇宙人は存在しないかもしれない。ただし、「わたしは幽霊を見た」あるいは「宇宙人に会った」と証言している人が実際に存在するなら、そのこと(そういう人がいること)自体は事実として扱います。証言者の話す内容が真実であるかは別にして。

(補足1) 当人にしか見えない幽霊現象は一種の精神疾患と考えられます。人間の意識と知覚が分離する「解離性障害」では、幻聴や幻覚が現れます。目の前に影のようなものが一瞬現れる。それが高じるとはっきり人の姿に見える。これは健常者にも現れます。臨死体験(後出)での「体外離脱現象」(自分の肉体を、別の視点から眺めているような感覚が起こる)はこの類です。

(補足2) 実験によるとリモートビューイングではビーコン(送信者)とビュアー(受信者)の関係において、二人の空間的距離や電波の遮蔽など部屋を完全に隔離した場合でも結果は同じになるという。すなわち二人の間に何らかの信号による情報の伝達があるとは考えにくい。ただしビュアーが無意識の状態をつくりやすい人ほど正解率が高いという。
そこで仮説であるが、ビュアーはビーコンの動作または周りの状況から、無意識の思考によってあらかじめ結果を予測するのではないか?だからわずかに有意なのである。この無意識下での思考を超思考と呼ぶ。(補足3)
人間の思考プロセスは必ずしも論理的なアルゴリズム(コンピュータのような計算パターン)によって制御されているわけではない。例えば犬や猫でも脳がある以上思考を行っている。
もしビュアーが正しい回答を得ても、それは無意識での思考パターンであるために定性的に捉えることができない。即ちなぜ正解が得られたのか、いくら実験しても答えが出ない訳である。
もちろん今後も(超能力の)研究を続けることは自由ですが、青山だったら関わりませんね。徒労に終わるような気がして。いずれ世紀の大発見として、人間には第六感のような超能力が備わっていることが証明される日が来るかもしれませんが、大いに疑問です。
もし仮に我々人間に五感以外の感覚、即ち第六感や第七感あるいはそれ以上のものが備わっていたとしても、この第六感以上は非常に使いづらい。のは確かです。当てにならない。視覚のように普通に使うことができない。もしこの第六感が視覚並みに便利なら、人間は進化の過程でこの第六感の能力をレベルアップさせていたでしょう。そうならなかったのはなぜか?そももそ使い物にならなかったからです。第六感があったとしても生き残る上であまり役に立たなかった。という訳です。

(補足3) 話がいささか神秘主義、あるいは哲学的になりますが、科学の因果律(実験による再現性)を超えた超思考、超作用(思いがけない身体能力)、超記憶(驚くべき記憶力)などは、存在する可能性があります。それが”超”とつく限り、我々には理解不能です。その他にも思考の現実化などは単なる偶然以上の何かがある。かもしれない。(思考が原因で現象が起こるのではなく、思考と現象は並行して現れる。なぜならその思考がどうして起こるのかも捉えられない) また他者との共時性(自分と他人が偶然にも同じことを考えていた(行っていた)など。「シンクロニシティ」とも言われる)や、あるいは宗教の祟りなど。(宗教的崇拝対象を粗末に扱うと、その報い(病気等)が現れる。実際に青山は何度も経験しています。それは心の隅に恐れがあり、それが体調の変容を起こすという仕組みです)。つまり心と体は連動しているのです。無論心(内面)だけで世界が変化するわけではない。精神が無意識的に行動を促すことから、その作用によって世界に変化が起こるということ。つまり見えない力など存在しない。
まあこれ以上語るとオカルトになるから止めますが、要するに不思議なこと(理解不能なこと)も存在するということです。

(補足4) オカルト(注)的な宗教の教祖や自称超能力者たちが実演する念力や空中浮遊に対して、「そんなものはマジックでもできる」と言うと、「では、これが超能力ではないということを証明せよ」なんて言い方をする場合があります。ただし、信じてもらいたいのは超能力者の方なんだから、証明責任は当然そっち(超能力者側)にあるはずです。科学的な立場から言えば、超能力が存在してもしなくてもいいわけです。
すると「科学は夢がない。超能力があった方が楽しいではないか」と言う人たちがいます。確かに超能力があった方が楽しい。だからと言って、「超能力は存在する」とはならないでしょう。
(注) オカルトとは、もともと「隠された」という意味があります。世界には隠された叡智なり秘儀が存在するという神秘思想です。まるで世界には何らかの意図があるような考え方ですが、そのようなものはみな科学ではありません。(文学や芸術の分野では用いられることもある) この世界に(故意に)隠されたものなどないのです。
  
(補足5) スプーンなどペンチを使えば簡単に曲げることができます。(経済的な)メリットなんか何もありません。あるのはデメリットだけです。スプーンを使い物にならなくしてしまうだけで、元には戻りませんからね。(ただし見世物にすれば儲かるかもしれない) こんな能力を長年訓練によって身に着けても、何もいいことはない。もちろん手を使わずに簡単にそれができるのなら多少便利ですが、こんなもの素晴らしくもなんともない。
スプーン曲げは手品でも簡単にできます。それを名の知れた学者や著名人(中にはノーベル賞級の科学者もいる)が絶賛する。「素晴らしい!」とね。すると世間一般は、あの人(有名人)が言っているんだから”本物”だ。と無批判に騙されてしまう。まあ、学者の知性なんてものもいい加減ですよ。

(補足6) 世の中には、科学は万能だと思っている人がいるようです。科学者の中にも、超常現象など絶対にありえない。すべては科学で説明できると。そしてUFOや心霊写真はこういう説明が可能と、何でもかんでも既知の科学法則と(無理やり)結びつけた持論を展開するのですが、どう考えてもそれは”こじつけ”でしかない。(例えばUFOは”プラズマ”だとか) 分からないことは素直に分からないといえばいい。それが科学者の姿勢です。すべてが分かることなどありえません。分からないのに分かった振りをするのが一番悪い。科学は万能どころか不完全なものでしかないのです。

(補足7) 科学者がペテン師に騙されていると分かれば、きっと笑い者にされるでしょう。そのため科学者たちは超常現象の問題を敬遠しがちです。ただし第一線を退いた科学者の中にはこんなことを研究している人は多いみたい。
よく、超常現象はすべて科学で説明できると思い込んでいる人たちがいます。様々な事例のどれにでも科学の法則を(強引に)当てはめて説明していますが、どう見ても無理があります。世の中には超常現象なんか星の数?もあるのです。そのすべてを(しかも即座に)解明するなんて、その方が非科学的です。解らないものは解らないんです。超常現象が存在することも解らないし、存在しないとも断言できないのです。
もしも、本当に現代科学の知識を超えた超常現象が真に存在することが分かったら(その時は”超常現象”とは呼ばないでしょう)、それはあらたな発見であり、科学者は誰もが手放しで喜ぶでしょう。未知の力、未知の能力、その存在を確認できたら、科学者じゃなくてもワクワクしますね。
ただし、オカルトと科学は関係ありません。頭のいい科学者がオカルトにハマってしまうケースも多々あります。(有名どころでいうと、霊媒を信じた王立協会会長のウィリアム=クルックス(注)) 例えば博士号を取得している、一流大学で難しい理論を研究していた、周りからも優秀という評価を得ていた科学者が、突然ひらめいたか(神の声を聴いたのか)、霊の存在を証明しようとした。死後の世界と会話できる通信機を発明した。馬鹿げている。というよりも気は確かかと言いたいくらいです。天才のやることは凡人には解りません。
(注) 1832〜1919イギリスの物理学者

 最後に繰り返しますが、ここで扱った超常現象、超能力、宇宙人、予言。すべてあり得ない、絶対にあり得ないとは断言できません。科学に”絶対”などないのです。学問は自由ですから、どんな分野を研究するのも研究者の自由。真面目に研究することは尊いことだし、研究内容によって研究者を馬鹿にすることはあってはならない。
ただし、あくまで科学的(客観的な証拠を探す。あるいは実験によって示す)に研究を進めなければなりません。
噂だけで、宇宙人は地球に来ている。超能力はある。あるいは霊は存在する。と証拠が何もないのに主張する。それでは科学ではありません。
でも、あなたが、「絶対に(霊や超能力が)存在しないとは言い切れない。存在する可能性だってあるはず」と、反論するなら、
青山、”明日、100万匹のパンダが月から汽車に乗って”パンダ!パンダ!”と歌いながら地球にやってくる。そしてそのままアメリカの大統領になる”
あなた、「そんなことありえない!」
青山、”絶対にありえないとは言えない”
 この科学時代に、そもそもなぜこんな非科学的なことを信じる人が多いのでしょう。悲しくなりますね。やはり原因は、味気ない日常(会社へ行って詰まらない仕事をする毎日、周りから認められない、夢のない人生)に嫌気をさしている?しかし、これが現実なんです。こんな世界にあなたは生まれてきたのです。
ようするにこの現実世界は我々が理解できるもの。どんな不思議な現象も冷静に観察したら、それは必ず科学で説明できるはずです。この世界に魔法などあり得ないのです。
初めに言った通り、科学の目的は「夢を実現すること」ではなく「真実を見極めること」にあるのです。

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