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人間としての生き方


人間の生き方

 人間とは何か?自分とは何か?もしわれわれ人間が、単なる動物としてではなく、自意識を持った、主体的に世界に働きかけることが出来る存在なら、その本質は自分の意識にあるといえましょう。すなわち自分は今現在しか存在しない。過去の自分も、未来の自分も存在しているものではありません。
それを踏まえて自分はどう生きたらいいのか?

 世の中の大部分の人は大変な誤解をしていると思います。その点を間違えているから、大半の人間は生き方が分からない。自分はどう生きたらいいのか、答えが見つからないまま生きている。あるいは世間にだまされて、間違った人生観を信じ込んだまま、人間としての生き方を知らずに一生を終える。
果たして、人間はどう生きたらいいのか?

 あなたは誤解しているかもしれません。仮にもしあなたが80歳まで生きたとしたら、この与えられた80年間の人生をどう生きるか(80年間で何をするのか)があなたの課題でしょうか?
いいえ、与えられた時間は今この瞬間のみです。この瞬間に何をするのかだけが、あなたにとっての課題です。
理由はこうです。
・人生の長さなど関係なし
人間は誰しも80年間生きられるわけではありません。8分間の人生だってあるでしょう。寿命はあらかじめ決まってはいません。80年の人生と8分間の人生では、その内容(経験、量的なもの)は当然違うでしょう。80年の時間があれば、たくさんの事ができるでしょう。8分間ではほとんど何もできません。
人間は本質的には皆平等です。(補足1) 経験、あるいは実績によってその存在価値が決まるのではありません。しかし今のこの瞬間しか存在者としての意味をなさないのなら、80年も8分も変わりはありません。
・この先いつまで生きられるか?それは誰にもわからない
もしあなたが今40歳になったばかりで、残りの人生をどう生きたらいいのか考えをめぐらせていたとしても、あと何年生きられるかなんて分からないでしょう。明日死ぬかもしれないのです。80歳はただの平均寿命です。そこまで生きられる保障はない。(それ以上生きるかもしれない)
・死ねば今までの人生で積み上げてきたものはすべて無になる
あなたがまだ生きているうちは、社会や他人に影響を与えることが出来るでしょうが、人間はいずれ死ぬのです。死ねばそこに実体はなく、人々の記憶、すなわち影だけが残るのです。あなたの死後、あなたが成しえたことは、風化する運命にあります。もしあなたの仕事が評価されて、それに対して国から叙勲されたとしましょう。しかしあなたが死ねば、その業績は曖昧になる。即ちあなた一人の成果ではないことが明らかになる。あなたを支えた同僚、仲間、友人、家族も当然それに貢献しているはずです。(存在同士は縁起によって互いに関係し合っているため) するとあなた個人の価値が相対的に下がります。もちろん事実は記録として永遠に残りますが。ただし、あなたの影は時と共に消えていくのです。なぜならこの世は「空」だから。

今この瞬間がすべて
 あなたが存在しているのは、今この瞬間だけです。今この瞬間に何をなすべきかがあなたにとっての唯一の課題です。たとえ次の瞬間死んだとしても、今現在はこの世界で生きているのなら、今まさに何をすべきなのか?動物として何がしたいかではなく、人間として何をしなければならないのか?生きている限り自分自身に問い続けるのです。(補足2)
この世界は自分だけの世界ではありません。あなたの隣に愛すべき隣人がいるのです。その隣人に対して、今何をすべきなのか?あなたの生きている課題はそれだけです。

自由と不自由
 人間は誰でも、どのように生きるかはまっくたの自由です。この世界は「空」です。従って自分は完全に自由なのです。世界に何も規範がないゆえに、自分にとって何が幸福なのかを決めるのも自由。どう行動しようとも、世界にどう働きかけようとも自由です。世界に意味や目的がないなら、あなたの生き方は誰から命令されることもなく、完全に自由だと言えましょう。
あなたが自分の意志を持った主体的存在なら何をしてもいい。この世界にどう働きかけてもいいのです。それはあなたの自由です。絶対的な自由です。自然法則に従う必要すらありません。ある意味我々人間は自然法則を超越しているのです。あなたは神と同じです。神の命令ですら従うか従わないかは、あなたの意志が決めるのです。
しかし実際この世界はあなたの自由にはなりません。あなたは自由に世界に働きかけても、それにどう応えるかは世界の問題(権利)です。それでも無理やり世界を従わせようという試みは、ことごとく失敗に終わるでしょう。しかしそれでもあなは世界を無視することは出来ません。あなたが世界にどう応えさせたいか?そのためにはどのように世界に働きかければいいのか?そのためには、世界の性質、自然法則を知ること。そのための手段が科学です。
それでも世界はあなたの思い通りにはならないかもしれません。いいではありませんか。そもそも世界を従わせたいというのには、自分の醜い執着心ですから。

あなたにとっての幸福とは
 人間にとって幸福とは、世界を思い通りに支配することではありません。世界はあなたの思い通りにはなりません。いくら科学を駆使しても、思い通りに行くとは限りません。仮に世界に適切な働きかけを行って、それで自分の望むように世界が反応したとしても、それがあなたの幸福でしょうか?
違いますよね。あなたは何もしなくても世界が自分の願ったようになってくれる。そうあってくれることを望んでいるはずです。
例えば恋人にお金を支払って無理やり「好きだ」と言わせたいのではないはず。お金を払わなくても、見せ掛けではなく、真に相手が心から自分を好いてくれることを願っているはずです。
そのためにはただ祈るしかない。あなたの祈りが通じるかどうかは分かりません。しかしあなたは信じるのです。必ずこの祈りが届くのだと。あなたにとって真の幸福とは、思いがけない喜びです。即ち神による絶望からの救い。それは祈りによって叶えられるのです。
 つまり幸福とは自らの努力によって得るものではなく、他から与えられるものなのです。だから自分は何をしてもいいし、何もしなくてもいい。してもしなくても一緒なら、何もしなければいい。しかし人間は生きている限り何もしないというわけにはいかないのです。何かするはずです。(何かをするのは生きている証)
呼吸をする。歩く。座る。寝る。そして用便をする。箸を持ってご飯を口に運ぶ。何のために?そうしたいからそうする?欲望のままに。いいえ、それでは人間ではありません。幸福になるため。そうです。しかしそうだとすると、自らの行動・努力によって幸福を得ることになります。先ほどの「幸福は、自らの努力によって得るものではなく、他によって与えらるもの」とは矛盾します。では、何のために、呼吸をする。歩く。座る。寝る。そして用便をする。箸を持ってご飯を口に運ぶ。本を読んで勉強する。頭を使て考える。人と会話をする。仕事をしてお金を稼ぐ。のでしょうか?答えは一つです。自分が幸福になるためではありません。

隣人に何をなすべきか
 自分が他人にできることはただ一つ、慈悲を施すことだけです。その際用いるのが科学です。科学こそはは隣人のため。世界への働きかけも慈悲のためなのです。たとえその動機が己の執着心だったとしても、その執着心を無償の愛に変えて、相手のために命を捧げるのです。それでも相手が満足するかは分かりません。しかしあなたは、たとえ相手が気づかなかったとしても、それでも慈悲を施すのです。それが人間としての生き方です。

慈悲とは何か
 慈悲とは、相手即ちあなたにとっての唯一の隣人を幸福にすることです。それがあなた自身にとって真の意味での幸福です。あなたが幸福になるには、他人を幸福にする以外にないのです。
ただし、真に相手が幸福になったのかどうか?本当のところは分かりません。分かるはずはないのです。なぜなら、あくまで相手は自分ではない。他人だからです。隣人に慈悲を施して、結果相手が嬉しそうな顔をしたのを見て、「ああ、この人は今幸せを味わっている」というのは単なる思い込みかもしれません。自分の勝手な解釈かもしれない。それによって自分が幸福を味わえたのも、所詮は自己満足かもしれないのです。しかしそれは仕方がないこと。自分がそれで満足なら、それで良いのです。隣人にねぎらいの言葉を掛けたとして、相手から「ありがとう」という返事をもらっても、相手が本心から喜んでいるのか?それとも単にお世辞でそう言っているだけなのか?自分には分かりません。あくまで相手は他人だからです。だから自分が解釈するのです。この人は本心喜んでくれている。そう思えばそれで自分も幸福だし、否、この人は単に喜んだ振りをしているだけ。そう判断したらまた別のやり方で隣人を慰めればいいのです。本当に相手が喜んでいると自分自身が納得するまで。つまり隣人が幸福になったかどうか、判断はあくまで自分がするのです。判定者は自分しかいないのですから。

良心の存在
 どんな人間にも”良心”はあるでしょうか?人に慈悲を施したいという思いはあるでしょうか?そして人を苦しめたと知った時、後悔の念に駆られる。そういう罪の意識は?青山はあると思います。その根拠は?人間は必ず後悔するからです。苦しむからです。人間も獣ですから、生存のための欲望が起こる。その欲望に身を任せた結果、隣人を傷付けてしまった。身勝手に行動し結果、人を悲しませてしまった。あるいは自分が愉快になりたくて、弱い立場の人をいじめてしまった。自分は不幸。その罪を人になすり付けてしまった。欲求不満のはけ口を他人に求めた。幸せそうな人間に嫉妬した。すると人間は後で必ず悔やむのです。誰であっても身を切るような罪の意識に苛まれるのです。そして苦しむのです。誰にとってもこの世で生きている人間は苦しむ。それはこの世の真理です。苦しむということは、その前に快楽を得た(愉快になった)ということです。一時的な快楽は空しさを生じます。そして空しさの底に悲しみを見るのです。己の内面を見つめれば、そこにあるのは苦です。
逆に人に慈悲を施せば、それは己の喜びです。それによって後悔など決してしません。隣人を愛する。人のために生きる。人々に喜びを与える。これも本能による欲望には違いない。それも自然淘汰の産物かもしれません。しかしそこには苦しみはありません。つまり、欲に基づく行為であっても、苦しむ場合もあれば、喜びを得る場合もあるのです。そして誰もが苦しみよりも喜びを得たいと願う。空しい快楽よりも真の幸福を求める。その選択の違いはなぜ起きるのか?後悔と喜びの差はなぜ生じるのか?それこそ良心の存在です。
即ちこの世で生きている人間は皆、心の底に良心を持つのです。人間は悪いと知りながら、欲望に抗い切れず罪を犯す生き物です。そして悔やむのです。身を引き裂かれる思いで苦しむのです。それに対して隣人を幸福に導けば、それは喜びであってそこに後悔はない。明らかに善と悪の違いがある。無論万人共通の善悪の普遍的基準などありません。(補足3) 何が良いか、何が悪いかは自分が決めることです。良心は一人一人違うのです。一人一人異なりますが、万人に存在します。なぜ人間には良心があるのか?否、なぜ自分には良心があるのか?分かりません。もしかしたら自分を創造した神が、最初からそれをあなたの心に忍ばせていたのかもしれない。あなたに良き人になってほしいがために。もちろんあなたを愛するがゆえに、神はそうしたのです。従って、たとえたくさんの人間を殺してきた大悪人もいずれ改心する。更生できる。そう信じましょう。
”良心”は宇宙の起源にまで遡る。宇宙の原初から存在していたものとして、良心は「自然淘汰」さえ超えるのです。

結論 人間の生き方
 仏教の教えを参考にすると、まずこの世界は苦しみに満ちています。一人の例外もなくこの世に生まれてきた者は苦しむのです。苦の原因は、外界(自分の周りの世界)に執着すること。執着とは、世界がこうあって欲しいと願うこと。それが分からないから苦しむのです。では、世界の真の姿を知りましょう。これをこの世の真理と呼びます。
釈迦が説いたこの世の真理は、「無常」、「無我」、「縁起」などです。一言で言えば、世界は”空”ということです。空とは、この世界のあらゆる存在において実体がない。ということ。つまり、確定された、あるいは固定され存在ではない。それは時間的には絶えず変化していて定まることがない。空間的にも境界線がない(常に隣と関わっている)から、固定化されたものなどない。ということです。この実体のない存在の集まりである世界そのものにも実体はありません。実体がないなら、この世界には固定的な存在も絶対的な存在もいない。ということは、世界には目的も方向性もない。ただあるがまま存在し、なるようになっている。理由もなく、何のために存在しているのかという答えがないまま存在しているのがこの「世界」の真実です。
しかし世界が存在している意味などないなら、自分自身は何者にも制約されず完全に自由であると言えます。あなたは何をしてもいいのです。どう世界に働きかけることも可能です。ただし、世界はあなたの行為に対して、あなたの願い通りに応えてくれるとは限りません。あなたは世界の返答に満足しないでしょう。それがあなたの不快の源です。そこで世界がうまく反応するように用いるのが科学です。世界の仕組み、自然の法則を知れば、原因と結果の関係から、あなたにとって好ましいあなたが行うべき手段が見つかるのです。しかしそれでもあなたの行為は裏切られるかもしれませんが、その原因はあなたが完璧ではないからです。
さて世界に目的や存在する意味がないなら、あなたは世界に従う必要はない。あなたはあなたで自由に生きる目的を設定すればいいのです。何のために今生きるのか?その答えはあなたが決めるのです?「生きているから生きている。」それは人間の答えではありません。自由だからといって、目的を設定しないままでは人間とは言えません。それは動物の生き方です。人間である限りそれは許されないのです。あなたが人間であるならば、主体性を持って、あるいは責任を持って、何のために自分は生きるのか、その答えをあなた自身で見出すのです。
あなたは何をするのも自由です。しかし食べたい、飲みたい、あるいはお金が欲しい、有名になりたいなどの欲を満たすだけでは、それは単なる動物としての生存本能に使役された欲望の奴隷です。それは人間の行為ではありません。
この世界で生きるということは、たった一つのことしかできないのです。それは隣人と関わることです。どのように隣人と関わるか?それだけがこの世界で生きているあなたの課題です。隣人を思いのまま支配したいのですか?しかし、それは不可能なことです。なぜなら隣人はあなたではない、すなわち他人だからです。その不可能な事を実現したいという欲から苦しみが生じるのです。
残るは唯一これだけ。あなたにできることはたった一つ。それは隣人に慈悲を施すこと。これは欲望を満たすことではありません。隣人に慈悲を施すことが、あなたにとっての唯一の生きる目的であり、それがあなたにとっての幸福です。

(補足1) 人間の個性としての差異や違い(年齢、性別、人種、学歴、性格、収入、職業、知性、才能等)は、他人を区別するための”方便”であり、本質は差など存在しない。そもそも善人も悪人もないのです。なぜなら世界は”一つ”だからです。

(補足2) 犬や猫は食べたいから食べる。その欲望を満たそうとしなければ死んでしまいます。それはただ自然にそういった欲望が起きて、それによって生き延びているだけです。つまり動物たちは、その本能的な欲望に使役されているのです。いわば煩悩の奴隷です。しかし食べても死にます。食べて生き続けることに意味などないのです。
人間の場合は違います。やりたいからやるのではなく、やるべきことやるのです。むろん何者かがそう命令したからやるのではありません。予めやるべきことが定められているわけではありません。そうしたいからそうするという点は同じです。ただし、動物と違い本能的な生存欲を超えて、あるいは煩悩の支配を脱して、あくまで主体的に、能動的に行動する。もし、なぜそうしたいのか?と問われれば、明確に答えにられる。それが人間です。

(補足3) 言うまでもないが、世俗の法律に従うことが善で、従わないことが悪とは限らない。

今後世界はどのように変わるのか。人類は将来にどう変わるのか。分かりません。何も変わらないかもしれない。否、近い将来人類の価値観が一変するかもしれません。ただし、この世界は急には変わらないでしょう。ゆっくりとしかし確実に世界は変わる。そんな気がします。

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