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自由意思と救い


ここで「自由意思と救い」というタイトルで、新たにコラムを設けました。

■自由意思は存在するか
 人間に「自由意思」は存在するでしょうか?科学的に言えば、人間は誰であれ、一種の生物にすぎません。いずれの生物も物理化学の法則に完全に従っています。では自由意思はないのか?
その前に自由意思とは何か?自由意思を「何者にも束縛されない存在者自身の意思」だとすれば、この現実世界のすべての存在は自由意思を持ちません。「束縛」を「影響」と解釈すれば、そうならざるを得ないのです。(「束縛」と「影響」の本質的な違いはない) なぜなら何者であっても、他からの影響を受けているからです。世界に二つ以上の存在があり、互いに関係を持てば必然的にそうなるのです。仮に神がいたとして、神の他にもこの世界に我々人間が共に存在しているなら、神ですら自由意思を持ちえません。
ここで、自由意思を「他からの影響を常に受けるとしても、その存在者の行動を存在者自身が決める(存在者の在り方によって決まる)」とするならば、現実世界に存在するすべての存在者が自由意思を持っていることになります。ここで重要な点は、自由意思を持つ者は人間だけじゃないということです。犬や猫、ハエやゴキブリ、道端の石ころに至るまで自由意思を有しています。人間しか自由意思を持てない。人間は特別な存在。という誤解が、自由意思とは何かという根本的な点を誤らせることになるのです。(図58「主体的存在」参照)
 次に自分自身には自由意思があるのか?という点について考察してみましよう。人間の感情、行動はすべて脳によって支配されています。人間は自分で選択、行動しているように思えても、実はその意識が生まれる以前に脳が予めすべてを決定しているのです。意思はあくまでその追認行為にすぎず、今さら否認はできません。(図55「意識と行動」参照) さらにある種の薬物を投与することによって脳を外部からコントロールすることができます。神経に刺激を与えることにより、まるで別人のこどく、温厚な性格の持ち主を凶暴な殺人鬼に変えることもできる。それは自分ではいかにしても抗しようがない。自分とは何か?それを「世界を認識する主体」とするなら、脳はあくまで世界の一部。すなわち人間は脳によって支配されていることになります。その場合もちろん自由意思はありません。
ただし、自分の意思は脳によってコントロールされている。脳に影響されている。ということが(自身に)認識されれば、(自分は)脳の支配を超えることになります。さらにその意識(自分の意思は脳によって作用されているということ)も脳の命令であり、それもまた「脳の命令であるという」認識がされた時点で脳を超えているのです。「人間は脳の支配を免れない」ということに気付いた時点で、脳の支配を超えた意思が新たに生まれるのです。別の言い方で、自分は今まで誤解してきた。あるいは騙されてきた。それが「騙された」と気付いた(認識された)時点で、正しい認識を持てた。即ち自由意思を獲得したということになるのです。今現在の認識も結局は脳の支配だと認識を持てること自体が脳を超えているのです。(補足1) 即ち自己そのものは脳ではない。(認識されるものは自分ではなく、世界である) つまり自己の本体は何者でもない。分からないのです。(補足2) さらに脳は完全ではない。物理的にも脳の支配は100パーセント完全ではあり得ないのです。(もし100パーセントなら完全決定論になる)
自分は今まで騙されてきた。あるいは誤解してきた。確かにその時はそうでした。でもそれは過去のことです。今現在は騙しや誤解を認識しています。すなわち騙しや誤解を超えています。そして今それを認識し、新たに行動しようとしているのは、まさに自分自身の自由意思なのです。後からそれが、やっぱり自分は騙されていた(脳に操られていた)と分かったとしても、今現在そのような未来のことは分からない。未来の自分は存在しない。そして騙されいた。それに気付けなかった過去の自分も、自分ではない。自分は明らかに今現在にしか存在しえないのです。
すなわち、自由意思はないというのは、誤りということです。

■自由意思と救い
 神を信じるか信じないか。それは人様々です。神の問題で万人が納得する見方は、神は我々が捉えることができるこの現実世界においては存在しない。あるいは神がこの世界に存在する確たる証拠は何一つ見出せない。というものでしょう。(補足3)(補足5)
ただし、個人の内面の救いの問題として論じるなら一概に神は存在しないと割り切ることはできないでしょう。人間はそんなに強くはない。人間は救いを求める生きものです。
「自由意思」と神との関係は古く「神学的課題」として、永い歴史の中で論じられてきました。その中で多くの学説が生まれましたが、青山の私見ではどれもしっくりこない。そこで、ここで改めて考察してみたいと思います。以下神についての考察はあくまで想定(そう見做す)です。ここでポイントは、神はある程度我々人間が理解できるものでないといけない。ということです。理解できないのであれば、それは我々にとって存在しないのに等しい。そんな神は意味がないのです。

・神は全知全能である。神はすべてのことを知り尽くし、不可能はない。
・神は人間(自分)に、自由意思を与えた。その自由意思は無制限である。即ち、これは許す。これは許さない。というものはなく、人間が行う一切の行為を容認する。我々人間は、自分の意志で好きなようにこの現実世界に働きかけを行うことができる。即ち自分は仮にも全能者に等しい。(補足6) ただし、神は真の全能者であるから、いつでも人間からこの自由意思を奪うことができる。
例えば、もしあなたが、自由意思に基づき、全人類を滅ぼそうと、世界中に核兵器を落とそうとしたら、神はその行為を止めるか?否、神が与えた自由意思は無制限である。よってその行為を止めることは決してない。無論全能の神は、その行為を止めることも可能である。さらに、神は全知であるから、あなたが将来、どのような過ち(罪)を犯すか、予めご存知である。
・神は何者にも束縛されない完全な自由意思を持っている。もし神がある人間の行いを見て、この人は啓典で記した通りの善良な行為を為したので天国に招かなければならない。あるいは悪を為したので地獄に落とさなければならないとすれば、天国に行くか地獄に落ちるかは人間の意志により決定されることになる。即ち人間は神の行いを選択できる。神はそれに従わざるを得ないことになる。それは即ち神の自由意思は人間によって制限を受けていることに他ならない。神は人間に善良な行為をさせることもできればさせないこともできる。あるいは悪い行いをさせることもさせないこともできる。つまり神の自由意思は完全である。それに対して人間の自由意思は不完全である。ただし不完全であるが自由意思を持っているのが人間である。
・神は完全であるが、人間(自分)は完全ではない。従って人間(自分)は誤った行為(罪)を犯す。
・その罪によって、その行為を行った者は、死ぬほど嘆き苦しむであろう。苦難にさいなまれたその者は、神に救いを求めるであろう。
・神はその祈りに応えるであろう。なぜなら神はその者(人間)を愛しているから。人間はこのように嘆き苦しむことによって正しい行いが何か、誤った行いが何か知る。それ知ることができるのは、自由意思があるからである。
・世界には、正しい行いと誤った行いがある。神はあなたに正しい行いをしてもらいたいと願っている。ただし、あなたが誤った行いをする様を見るに見かねて、強制的にあなたから自由意思を奪い、あなたのその行為を阻止することはしない。神はあなたを愛している。だからこそ、神は自由意思を持つあなたに対して自ら正しい行為を選択して欲しいと願っているのだ。そのために自由意思を与えた。それを奪い、神の力をもって強制的に人間をコントロールすることは神の本意ではなく、そんなことをしても何の意味もないのである。
・神は、あなたが誤った行為をして世界を不幸にすることに対して悲しんでいるのではない。神は、あなたが自分の行ったことの結果嘆き苦しむことに悲しみを表し、そのためにあなたを救うのである。あなたに正しい行いをしてほしいのも、あなたが嘆き苦しむことがないようにするためである。あなたが正しい行いをすれば、あなた自身苦しむことはない。
・もしも神が人間に自由意思を付与しなければ、人間は存在者とは言えない。我々は存在していないのと同じである。
・あなたは神の属性(被造物)ではなく、神と人間(自分)は、ある意味独立した平行関係の相対者同士である。神はあなたを愛する者。あなたは神の愛に応える者。あなたは自らを救うことはできない。あなたを救うのは神の一方的な愛である。もちろん神は世界の在り方やあなたの未来を、(あなた自身の行為に関わらず)予め決めることもできる。逆に決めないこともできるのである。神は予め世界の在り方を決めている(予定説)。というのは、神に(決めるべきものとして)制約を課していることに他ならない。
・いかなる人間でも少なからず間違いを犯すのを完璧かつ事前に改めることはできない。ただし、間違いを犯した時、嘆き苦しんだとき、ひたすら神に許しを求める。そして必ず神が救ってくださることを固く信じる。絶対的に無条件に信じることはできる。さらに正しい行いをして神の期待に応えることを常に意識して、この自由意思を駆使することはできる。(補足7)

 要するに、神は我々人間の理解を超えている。人間は原罪によって神と断絶している。人間の行いは予め神によって決められている。(予定説=自由意思などない) あるいは善人は天国へ招かれ悪人は地獄に落とす。神は信じる者のみを救う。などは皆誤りです。

■良心と科学的態度
 人間は誰であろうと、あなただってこの青山だって、もともとは不完全なのです。その不完全な存在である人間に、神は”良心”というものを与えました。すべての人間が個人差はあるにせよ少なからず良心というものを持っています。この個人差は、人間としての個性の違いです。これを人格と言います。どんな悪人でも、この良心を持っている。まったく良心を持たない人間など存在しません。もし微塵も良心を持っていなければ、人間としてこの世界に存在することすらできない。この世界に生きていること自体良心を持っている証拠なのです。
人間はもともとこの良心を持っていたわけではありません。神がいなければ良心を持つことなどできません。なぜ神は、あなたに良心を施したのでしょうか?もちろんあなたをこの上なく愛しているからです。
この地獄のような世界にいて、たくさんの不幸、あまりにも理不尽な様を目の当たりにし、あなたは世界を創造した神に怒りを覚えるかもしれない。この尽きることのない悲劇を生み出した神に対して、抑えきれない激しい憤りを感じることでしょう。それはあなたに良心というものが備わっているからに他ありません。それを神から与えられたのです。理不尽、不条理に苛まれた隣人をこの苦しみから救いたい。それは良心から生まれた”悲”の働きです。
さらに神は世界を正しく認識する能力、即ち現象を客観的かつ合理的に理解する科学的態度も与えました。それによってあなたは適切に世界に働きかけ、事態を改善することができるわけです。この科学的態度もすべての人間に備わっているものです。人間はその良心、そして科学的態度を自分なりに発揮すれば良いのです。
ただ、世界が理不尽なのは神の精ではありません。世界が不完全に見えるのは、あなたが不完全だからです。従って神を憎むのは誤りです。神はあくまであなたを愛しています。神は例えあなたが神に怒りを見せても、自由意思のもとその良心と科学的態度を持って隣人に愛を施すなら、その幸福のため尽力する姿を見て、きっと喜ばしく思うことでしょう。

(補足1) デカルトの「我思うゆえに我あり」ということと同じで、どこまでも認識し続ける何者かが存在する。それが自分だということです。

(補足2) 結局のところ自己は本当に存在しているのか。その確証はない。

(補足3) 聖書やコーランは神がお書きになったもので、その他の書物とは本質的に異なる。という見方をするのは自由ですが、それはその人の独断であって、一般的に「聖書」と「源氏物語」ってどこが違うの?どちらも同じ書物でしょ。聖書やコーランだって結局は人間が書いたものです。神が書いたという根拠は何一つありません。いや、神が書いたものだ。そう信じるのは自由ですが。「源氏物語」こそ神が書いたものだ。否、神が書いたものだから尊いとは限らない。そういう見方だってあるのです。価値の判断は多様にあり、普遍性をもったものなどない。「聖書」だ!「源氏物語」だ!その論争は永遠に平行線のままです。この世界は、相対的なのです。(補足4)
なお、人間が書いたものだからといって聖書やコーランに価値がないとは決して言えません。個人的には素晴らしい書物だと思います。

(補足4) キリスト教の伝道師の中には、人間は皆救われるという「万人救済説」に反対する人たちがいるようです。根拠は”聖書に「人間には救われる者もいれば、救われない者もいる」と書かれているから”というもの。もちろん自分一人がそう主張するのは自由です。しかし青山的には”聖書そのものが間違っている”のでは?と思いたくなる。人間が書いた物である以上間違いである可能性も当然あります。「いいや!イエス様の言葉に誤りはない!」そう反論するかもしれませんが、イエスだって所詮は人間でしょ。神なら過ちを犯さないが、人間は完全ではありません。「いいや!イエス様は神そのものだ!」。そう思うのは自由です。
伝道師の中には聖書に基づいたたとえ話で説明します。よく出てくるのが、登山中の道迷い。山道を進む登山者の前に分かれ道が現れ、標識に右「キリストの道」、左「滅びの道」とありました。当然標識に従い右へ行けば助かる。左に進めば崖から転落。ここでいう標識とは聖書のことです。青山の私見ですが、本当の天国は人間がとても予見できないほど、この世を超越した世界でしょう。それをこんな登山の話(現実世界の日常のたとえ話)に置き換えられるほど簡単なものでしょうか?
結局、伝道師の方と青山は前提から違っているのです。つまり聖書やコーランは神によって書かれたものだから無謬(間違いがない)。それに対して人間が書いたものだから間違いがないとは言えない。という立場です。よってこの論争は、(本当に死後天国へ行く者と、地獄に落ちる者の姿を見ることができないため)事実を確かめようがないから、結局話は平行線のまま?いいえ、青山には勝算があります。もちろん青山にも死後のことは確かめようがない。しかし青山も伝道師も同じこの現実の世界即ちこの世に生きています。見ている現実は一つです。あの世のことは何も言いません。しかしこの世界であるなら真理は一つです。いつかその伝道師の方にも分かってもらえるかもしれません。
我々は本当の死を知らない。最終的に救われるか救われないかは、我々が死を迎える時なのです。どんな悪人でも救われるのか?ただし、この世で己が為した悪は、それがたとえどれだけ些細なことであっても、必ず自分が、この世で生きている今その報いを受ける。それは死以上の痛み、耐えきれない苦悩と、永遠とも思える悔恨を伴うものなのです。

(補足5) 青山個人としては、キリスト教を初めとする唯一絶対の神、天地創造の神という概念がまったく理解できません。なぜ神はこんな穢れた現実世界を創造し、人間というできそこないを造ったのか?そもそも青山は無宗教です。神という概念は宗教や民族を超えて、人類に普遍的なものかもしれません。でもなぜイエスが神なのか?イエスは歴史上の人物、賢者であっても人間には違いない。それが合理的な考え方だと思います。

(補足6) いくら自由意思が与えられていてもできないことはある。それは神を抹殺すること。なぜなら、神は現実世界には存在しないからである。

(補足7) 自由と責任について
自分の意思による行動の結果の責任は当然自分にある。人間には自由意思があるからこそ、それに伴ない責任もある。神の精ではないはず。つまり世界のすべての結果を自分一人で受ける。その責任とは、過去も未来も含めて世界の全ての出来事の責任は自分一人に帰す。という自覚を持つことが必要。それが自由意思を持つということの意味であり、それこそが存在者であるということの証でもある。

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