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死と真の世界 涅槃と仮の世


 今まで多くの他人の死を見てきた人間も、最後には自分自身が死を迎えることになります。果たして死んだら(自分は)どうなるのでしょう。
ところで他人の死と自分の死の決定的な違いは何でしょうか?人の死は見れますが(観察可能)、自分の死は決して見れません。見れたら見ているのはいったい誰?自分は死んでいるのに?矛盾だ。では自分で自分の死を確認できないため、自分は死なないのでしょうか?
その通り!
その通り???
ただし、今、自分が自分である(自分は間違いなく存在している)という認識、すなわち意識があれば。なぜなら自分にとってその意識が消える(と認識される)ことはないからです。
自分が死んだら、何かそこに世界があるのでしょうか?ないのでしょうか?しかし”ない”という認識はないはずです。自分が存在しないことを自分が認識するなんて矛盾です。
では、自分にとって「死後の世界」はあるのでしょうか?
まだ断定は出来ませんが、青山は”ある”と思っています。え!他人の死の場合はきっぱりないと否定したくせに、自分自身の場合は死後の世界があると言うの?
だから他人の死と自分の死は全く異なるのです。「自分の死」とは、この青山にとっては青山の死。あなたならあなたが死ぬときです。もちろん青山も実際に死んだ経験はないから、「死後の世界」があるのかないのかと問われれば、「分かりません」と答えるしかないのですが、恐らくあるでしょう。
死後の世界があるなら証拠を見せろ。
証拠なんか見せられません。この世からあの世はどうしたって見えないのです。証拠はないけれどそれなりの根拠はあります。それをお話しましょう。

マッチ売りの少女
 アンデルセンのマッチ売りの少女の話はご存知ですか?もちろん単なる物語です。事実では有りません。
そんなものが根拠になるのか?
まあ聞いてください。あら筋はこうです。
クリスマスイブの晩、雪の降る中、マッチを売り歩く一人の少女。マッチは売れず、家にも戻れず。
寒さの中暖をとろうと、売れ残りのマッチを自分で擦ってみたのです。するとマッチの火がともる間、そこに暖かい暖炉や目の覚めるような素晴らしい料理が現れました。暖炉や料理はマッチの火が燃え尽きると同時に消えてなくなりました。最後に少女は持っていたマッチをすべて擦るのです。するとそこに亡くなった少女のおばあさんが現れたのです。その優しいおばあさんに抱かれて少女は天に昇って行ったのです。
翌朝そこに横たわる少女の遺体が発見されました。彼女は寒さの中凍死していたのです。ただ、少女の顔は微笑みに包まれていました。
あくまでフィクションですが、何とも悲しいお話です。
ところで、少女の見たおばあさんは本物でしょうか?ただの幻覚でしょうか?もしその時少女が助け出されて息を吹き替えしたのなら、これはいわゆる臨死体験です。おばあさんは幻覚です。しかし少女は亡くなりました。亡くなった少女にとっておばあさんは、まさに本物です。実在なのです。なぜか?少女は”亡くなった”からです。この世のものではありません。
少女は死後の世界に行ったのです。ただ死後の世界はこの世界からは決して見えません。この童話はもちろん実話ではありません。アンデルセンの想像です。ただし、死とは何かを教えてくれるのです。
「死後の世界」ってどこにあるの?
この世界から見たらどこにもありません。死ななければ行けないところです。人間は死と共に(この世では)”無”になるのです。この世で無になると同時に、死後の世界に行くのです。(補足1)
死んだら無になるのではないのか?なぜなら脳がないのだから、意識もないはず。
自分が無になった。つまり存在しくなったことを自分自身が意識できるはずはありません。脳が意識を作り出しているとしたら、脳の消滅と同時に意識もない。しかし自分で自分の意識が無くなったことを認識できない。従って(自分の)意識がなくなることはない。意識しているのは生きている証拠です。従って脳がないなら意識もないとは言えません。(補足2)
脳がないのにどこで意識しているというのか?脳と意識は連動(関係)していますが、脳と意識は別物です。その意識が、脳がなくなっても存在している可能性はないとは言えません。
では意識って何?
分かりません。そんなものは存在しないかもしれません。意識がもし物理現象ならなら観察できるはずです。しかしそれは不可能です。意識は観察できません。意識とは何か?それを説明することは不可能です。(図50「意識を確認する」を参照 )
これはあくまで仮説ですが、恐らくこういうことでしょう。一瞬にして脳細胞のすべてが破壊されたとしましょう。破壊されたということは、そこに何らかの作用があった(強い力が加わった)はず。そこで脳細胞という物質が変化する。その変化そのものが意識の働きではないでしょうか?変化そのものは物質ではありません。従って意識は破壊されません。生きているときの脳の変化を意識とすれば脳と意識は連動していることは確かですが。その変化は脳を超えて(脳が破壊されても)宇宙に出て行きます。そして宇宙そのものになるのです。
つまり自分とは”意識”のことなんです。意識は現在しか存在しない。過去の意識って何ですか?そんなものがありますか?過去の意識ではなく、過去の記憶でしょう。(記憶しているのは今です) 未来の意識とは何ですか?未来の意識ではなく、未来の予想(あるいは期待や不安)でしょう。予想しているのは今です。意識しているのは現在ですよ。すなわち自分は現在しか存在しないということです。つまり過去の自分、4月に課長に昇進したサラリーマンは、その前に係長だった自分は他人に等しい。あるいは10日後に結婚を控えている自分にとって、既婚の自分は他人に等しい。すなわち現在以外は自分ではない。(図93「過去の自分なんか存在するのか?」参照)(補足3)
すなわち意識は現在限り。逆に言えば、意識は時間を超越している。すなわち意識つまり自分にとって”現在”は永遠。従って自分にとって”死”(消滅)はない。

死んだらどのなるのか?まったくの仮説。というよりこの青山の空想物語。
 さてここからはまったく根拠はありません。まったくと言うと語弊があるかもしれませんが、証明は不可能です。従って信じない人がいても問題はありません。信じてもらいたいとも思いません。逆に一途に信じてしまう人の方が問題かもしれません。
人間は、もし自分自身が死んだとき、いったい自分は何を体験するのか?このまま生き返ったらそれは臨死体験ですが、あくまでマッチ売りの少女のように生き返らない場合のことです。
物語はこう始まります。時がたち、あなたは不治の病に侵されていました。そして病室に寝かされていたのです。(そう想像してください) 病状の悪化から、いよいよ自分は死ぬのだという気が起きてきました。
●死の床から臨終直前まで
最後の痛みが始まりました。あなたは苦しみに責めさいなまれるでしょう。そしてこの苦しみに耐えながらも、苦しみを去らせて欲しいと”誰かしら”に祈るのです。(その誰かとは”神”のことかもしれません)
祈りは聞き入れられず苦しみは増します。もはや何日も前から死の予感をしていたあなたは、医師から余命を聞かされ自分の死に対して覚悟を決めます。
「もはやいつ死んでもいい」。この世に未練はないと。反面まだ生きたい。あわよくば助かりたいという思いも残っていました。病気に侵される前の生活、仕事、家庭、そのときの状態が再び訪れることを願うのです。
しかし死期は迫っています。あなたは最後の力を振り絞ってこの苦しみに耐えます。その瞬間まで一抹の(自分は助かるという)希望を捨てきれずにいる。少しでも長く息を保とうと一所懸命頑張りますが、最後の瞬間、余りの苦しみに耐えられなくなったあなたは、その命の綱から自分で手を離すのです。
●死の瞬間
手を離した途端、あなたは苦しみ(痛み)から解放され、宙に浮いたような心地よい気分を味わいます。
苦しみが無くなったあなたは、肉体が消えていくと同時にこの世では絶対に体験できないほどの快楽の極致、あるいは無上の爽快感を味わう。
(説明)肉体(神経・感覚器官)があるから欲望がある。欲望が満たされないから苦しみがある。肉体が無くなればば苦しみもなくなる。(図73「十二因縁」参照)
●至福の境地
肉体を失った意識は、至福の境地を味わう。自分の意識が束縛していた肉体を抜け出し、この穢れた世界を離れて、天上界に上る(移動する)感覚を味わう。それは懐かしい故郷に帰るような気分。喜びの極致。生きている内にこの喜びを味わうことはできない。
(説明)意識が分離して、作用が宇宙と交わり、宇宙と一体となる。
●至高の存在との出会い
するとその先に自分を導いてくれる者(至高者)との出会いが待っている。それは愛する者であり、神であり、はたまた阿弥陀如来であるかもしれない。マッチ売りの少女にとってはおばあさん。
(説明)至高者とは宇宙そのもの。これは至高の存在すなわち宇宙と一体となることを意味する。
●安らぎの世界へ
愛する存在に抱かれて、永遠の安らぎを味わう。あるいは絶対的な満足感を得る。
●全知者へ
いつしか隣人(至高者)は消え、自分は一人であることに気付く。同時に今まで知らなかったこの世とあの世のすべて(現在・過去・未来)のことを理解する。
自分は何のために生まれたのか?この世界とは何か?自分とは何者か?すべては必然であり、すべてに理由があることを知るだろう。
そして自分が前世(我々から見てこの世)に残してきた家族を思うが、何一つ心配はいらないことを知る。残してきた者たちにはどういう未来が待っているのかもすべて解る。いずれ残してきた者もこの世界に到達することを知るのである。
前世(我々から見てこの世)は仮の世で、今いる世界(我々から見てあの世)が真の世界であると知る。
すべてが解かると同時に一切の不安が消滅する。
(説明)不安とは分からないこと(未知)から生じるのであって、何もかも分かってしまえば(全知者になれば)一切の不安は消滅する。
この世にいる限り、自分は何のために生まれたのか?この世界とは何か?自分とは何者か?それは全くわからない。
さらに説明を加えると、自分の本性は意識である。生きているときは、自分と宇宙は相対している。従って自分のこと(何もないと)は解るが、宇宙のことは解らなかった。しかし宇宙と自分が一体化すれば、宇宙のすべてが解ることになる。
●平安の世界に向かう。
全知者になった後は、すべてを悟り永遠の時間を費やしながら無に向かって進んでいく。
(説明)これを仏教では「涅槃」と言う。完全なる涅槃すなわち無になるには無限の時間が必要である。しかしこの世では、それは一瞬にして終わる。(死は一瞬の出来事)(補足4)
結局自分の本質とは、(人間という動物としての)肉体ではなく、「意識」そのものであること。

概して人間はみな死と共に天国へ行けることになります。天国では無上の幸福が待っています。その素晴らしさは”コーラン”に描かれている天国の描写とは比べ物にならないくらい素晴らしい。その様子を言葉で表すことは不可能です。(言葉で表した途端、それはあの世ではなくこの世になる。すなわちそれは地獄です)(補足5)
これは生前この世で悪を為したか善を為したかに関わりない。すべての存在(人間)が死後同じように天に向かうのです。
ただし、快楽を味わうかどうかは死に方によって違ってくるかもしれませんね。死の直前苦しみを多く味わった者は、その反動により無上の快楽が与えられると思います。(死の直前の苦しみは肉体を持つことによって生じているから)
ただし、快楽を味わうかどうかは本質ではなく、それ以降の絶対的な満足感や幸福感は、すべての者に現れると思いますよ。なぜなら意識が肉体を離れて宇宙と一体になるプロセスは同じですから。

■注意!
ここで一点注意。絶対に誤解しないでください。上記「死のプロセス」で味わう快楽や安らぎは、死んで初めて味わえるもので、この世界に生きている状態では絶対に体験することはできません。もしかしたら瞑想やヨガでも似たような快楽、歓喜、あるいは平安の境地を味わえるかもしれません。それはそれでメンタル面で有効ですが、あくまで心理学上の効果でしかありません。同じようなことは「臨死体験」でも起こると思いますが、あくまで死後の疑似体験と言うべきでしょう。すなわち心理効果以上のものは期待できないのです。青山が「本当の死」と臨死体験を完全に分けているのはそのためです。これを誤解して、生きている間に得た快楽や歓喜を、絶対的至福のそのものと解釈してしまうことは狂気以外の何物でもない。あくまで疑似体験であることを理解すべきでしょう。(例の「オウム真理教」の教えそのもの)

【解説】
・人は皆最後には、自分の死(つまり現実)を受け入れます。受け入れざるを得ないからです。ただ、死期が迫った際、今までの人生を振りかえって、その時に自分の一生を後悔するかもしれません。後悔する人間の特徴は、自分のために人生で頑張ってきた人たち。そして数々の結果(成果)を残してきた。例えば、必死に働いて莫大な財産を築いた人。努力を重ねて大統領になった人。長い年月勉強を続けてノーベル賞を取った人。人並外れた練習の結果オリンピックで金メダルを取った人。つまり一つのことを一途にコツコツとひたすら頑張ってきた人。これらの人々はなぜ頑張ってきたのでしょうか?その動機の背景として、お金が欲しいから。名を残したいから。世間の称賛を得たいから。人々から愛されたいから。そして最後になって思うのです。「俺の人生は何だったのか?こんなことのために俺は今日まで一生懸命頑張ってきたのか?」。そして知るのです。すべては無意味であったと。人生に目的などない。人間として生きている間に為さなければならないことなど一切ない。この世は「空」だと。死の直前何とも言えないとてつもない空しさを味わうことになるのです。反対にあまり頑張ってこなかった人、何事も長続きせず結果らしいものを残せなかった人などは、あまり後悔しないでしょう。あと、自分のためではなく人のために生きた人も後悔はしません。ただし、後悔した人(苦しんだ人)もあまり後悔しなかった人も、最後には素直に死を受け入れて安らぎの世界に往くのです。
・善人も悪人も死者として本質は同じです。同じ人間であれば大して変わりません。どんな人間でも少なからず罪を犯すし、あり得ないほどとてつもない罪を犯すであろう大悪人は、そもそもこの現実世界には存在できないのですから。この世で善を為した者は天国へ、悪を為した者は地獄へ赴くなどという話は、この世で人々に悪をさせないように戒めるための方便です。(補足8) もしそういった戒めがなければ、人間はこの世で好き放題のことを行い、人類という種は滅んでしまうでしょう。(補足9) つまり、天国も地獄も自然淘汰によって(進化の過程で)作り出された嘘に過ぎないのです。特に地獄へ行くことはありません。何人も地獄など恐れる必要はないのです。なぜならこの世が地獄そのものだからです。この世以上の地獄はありません。この世が地獄に思えない人は、この世の実態を知らないのです。(補足10) この世の隅々まで見渡してみましょう。もっともっとこの世の苦しみ悲しみを知ってください。すべての苦しみはこの世にあります。つまり我々は既に最悪の地獄を味わっているのです。(補足12) 従って、この世界を去ればそこにあるのは天国(のようなことろ)です。
・天国も地獄もない。死ねば皆同じ。そう言うと人によっては(特に宗教関係の人間は)怒るかもしれません。「どうして悪人も天国に行けるんだ!だったら生きている内に(この世で)好きなだけ悪事を行えばいいじゃないか!」とね。もしそんな悪事を働きたいなら、働けばいいと思いますよ。この世で最も救えないあなたなら。どうぞどうぞ好きなだけ悪を行えば。(補足13)
この世は一つの世界です。この世で起こった出来事はすべてはこの世の中で完結しています。この世で為したことは(善でも悪でも)すべてこの世で報いを受けるのです。自分が為した犯罪はこの世で報いを受けます。死ねば罪から解放される。しかし実際に犯罪を犯した瞬間はこの世で生きていたはずです。だから報いを免れることは不可能です。(この場合の報いは力学的な反作用だと思えばいい) 今生きている現在何かを行えば、その反作用(報い)は今この瞬間起こるのです。そしてその影響は(本人が死んだ後も)未来永劫残る。誤った考え方は、自分が為した行為の報いを何年後かに受けるというもの。それは正しくない。影響が消滅することはありません。いかなる瞬間においても常に存在します。この世で生きている限りその影響から逃れることはできないのです。行為を行った以降、自分が観察するすべての事象(自分が受ける外界からの作用)にそれは現れます。ただし、その一つの行為が、受ける影響のすべての原因になっているとは限らないということです。他にも様々な要因(他人が悪い場合も当然ある)が考えられます。それがこの世界の原理です。
するとまたあなたは反論するかもしれません。「もしある人間が法に触れる罪を犯して懲役20年の判決を受けたとして、1年もしないうちに死亡したら、残りの罪は誰が償うのか?」と。いったいその罪に対して”懲役20年”って誰が決めたんですか?法律がそうなっている?そんな懲役20年なんて根拠はどこにもありません。法律なんてものは人間が勝手に作った物です。どんな些細な犯罪でも、たった20年で償えるはずがありません。20年どころか、懲役2億年でも足りない。なぜなら一旦起こしたことは元には戻せない(無かったことにはできない)からです。そしてどんな善人でも罪は犯します。(なぜなら食べるために生き物を殺すから) どうしたって人間は(どれほどの善人であっても)一生の間に罪を償い切れない。ましてこの世に存在しない者に何の償いを求めるというのですか?死んでしまった(存在しない)者がこの世で何をしてくれるのですか?
よく考えてみてください。この世は因果律的に閉じているのです。(補足16) すなわちこの世で因果関係が完結しているのです。それがこの世界の掟です。もしも因果律が破たんしたら大変なことになります。突然物が消えたり、逆に現れたり。そこは科学の原理が全く成り立たないオカルトの世界です。こんな世界では我々は生きていくことはできません。死後の世界は科学を超越したところ。だから生きている我々には理解できない。存在しないに等しい。生きていない者(亡くなった者だけ)が体験できる。つまり死亡した者に何の罪も問えない。この世に存在しないからです。従って残った罪は(強いて言えば)この世に生き残った我々が、永遠の時間を費やして償うのです。(補足17)
もしこの世で犯した罪をあの世で償うなら、そもそも裁判なんかいらない。刑務所なんかいらない。犯人を捕まえる必要もないでしょ。いずれ死んだらあの世で報いを受けるんだから。(地獄には裁判官として”閻魔大王”がいるし、刑務所として”八大地獄”もある) 悪いことをした人間は地獄へ行くなんて話は、みんなインチキです。ちょっと考えれば分かることです。
・死者にとって本当の世界とは死後の世界のことです。そこで自分は一人であることに気付くのです。本来は自分しか存在しないのです。(独我論的世界)(補足18)
・輪廻転生などはない 死者は死後の世界に赴いたとしてもまたこの世に生まれ変わるという根拠は何もありません。(信じるのは自由ですが) よく、この世は修行の場であり、人間は何度もこの世に生まれ変わって、その間に成長して次の生に向かう(再び生まれる)と言う人がいますが。逆に、輪廻などなく、人生は一回限りだと思うからこそ、今を精一杯生きようと思うのでは?もちろん生きている限り、人生はいくらでもやり直せます。ただし、死ねばもうやり直せません。だから、今この瞬間にすべてを懸けるのです。逆に生を何度も繰り返し終わりがないとしたら、人生はいくらでもリセットできる。コンピューターゲームのようにいざとなればリセットボタンを押せばいい。人生なんかいい加減でいいや。と思うでしょう。生まれ変われる、人生は何度でも繰り返せると思っている方が充実した人生を送れると思っている人は何か勘違いしていませんか?この世で修行を重ねて人間は成長する?そう思っている人に質問します。成長って何ですか?あの人は成長した。この人は成長しなかった。その成長の”基準”て何ですか?前の生(前世)で試練を乗り越えたから、今の生(今世)で成長した。前よりも成長した?その成長の段階って何ですか?そんなものありませんよ。だってこの世は”空”だから。目的も、方向もありません。もしも成長した人(我々よりも高い段階に上った人)がいたらお目にかかりたいと思います。いったいどんな素晴らしい人なのか、そしてどれだけ素晴らしい人生を送っているのかね。そんな(我々よりも高い段階の)人間なんか世界中探してもいませんよ。釈迦やイエスですら人間としては大したことはないと思っています。どんな悪人も愚か者もあるいは聖人君子でも似たり寄ったリです。(人生を試練の場、成長の場と見る考え方の何と下らないことか。つまり世界の本質、人生の本質が分かっていない。人生はにもっともっと深い意味があるのです)(補足19)
結局生まれ変わりなど、亡くなった人とまた会いたいという願望が産みだした幻想です。(補足20)
・人間はいつ死ぬか分かりません。明日死ぬかもしれない。いつか死ぬにしてもこれだけはやり遂げて死にたい。人間としてやり残したことがないように、やるべきことを終わらせてからに死にたい。そんなわがままを言っている人間はいつまでたっても死ねません。やり遂げたいことなんか無限にあります。そんなことを言っていたらきりがない。すなわちこの世に未練を残すことになり、そう思っているうちは苦しむのです。いつでも死ねる覚悟を持つことです。例えば子供の結婚までは、死なないでいたい。なんて思っていても、結婚式の前日に死を迎えるかもしれない。それは無念で、死んでも死にきれない?いいえ、人は死ぬとき誰であっても従容に死ねるのです。これまでどんな人生を歩んで来ようが決して後悔などしません。死に際して何一つ未練など残しません。最後はジタバタなどせず、必ず死を受け入れます。そして安らかになるのです。だからいつでも死んでいいと日ごろから思っていることです。たとえ子供の晴れ姿を見られなくても、それはそれで仕方がないこと。潔く死を受け入れよう。(補足21)  死んでいく者に無念なんかありません。どんな人間でも安らかに死ねるのです。いつでも死が訪れれば。
・この世に残してきた業(ごう)。この世で為したどんな大きな出来事あるいは事業(成果)も、いずれ人々の記憶から消え去るのです。自分が為した罪もいつかは消え去る。ただし完全に無になるためには無限の時間が必要です。亡くなった人間にとっては、この世との関係がすべて切れて別の世界に行きますが、この世に残された者(つまり我々)にとっては、亡くなった人間の因縁(影響)、あるいは業は永遠に残るのです。(補足22)
ただし、いずれその影響(業)は時間とともに、消え去ります。なぜなら世界は「空」だから、いかなる人間の影響も、無限の時間を掛けてやがて「無」になるのです。(罪も消える) それこそがこの世における「涅槃」です。そのことにおいて、ある意味(この世に生きている)我々にも救いがあると言えるでしょう。
・人間以外の生物にも死後の世界はあるのでしょうか?意識を持つ者ならあると言えます。人間以外の犬や猫には意識がないと言えますか?恐らく犬や猫にもそれなりの意識はあるでしょう。それは死後も残るのです。あるいは亡くなる際認知症を患っていた人はどうでしょうか?自分が自分なのかも分からない(症状として自分が誰なのかも分からない)状態で死亡したら?
死後の世界における意識と認知症は関係ありません。はたまた眠ったままの状態で死亡した場合も同じです。そこに意識が存在するのです。(あくまで仮説ですが、眠った状態でも脳細胞が死滅する際何らかの作用を受けます。その作用に伴って人は覚醒するのです) 死後の意識とは通常の(生きている際の第三者から見た)意識とは異なります。それは自分が自分であるという認識です。従って自分にしか認識できないものです。意識という物体はありません。意識はいわば現象です。人間が死ねばその意識は脳を離れて、ある意味この世界から消滅します。そして死後の世界に赴くのです。死後の意識ではこの世界における現象ではありません。従って時間感覚も異なります。 死後の世界で無限の時間を経験しても、この世界では一瞬なのです。(補足23)
結論として、仏教でいう最終到達点、完全なる理想的な境地である「涅槃」。すべての衆生はそこに至ることが保証されているのです。その根拠は、この世界が正に「空」だということ。今現在世界が「空」であることにより、絶対的な「無」の状態である「涅槃」に達することができる。一般的に「空」というと何となく「空しい」と言う否定的なイメージで語られますが、この「空」こそが我々が最終的に求める、一切の煩悩が消滅し、すべての苦しみから解放された絶対的な安定状態である「涅槃」に至る要因なのです。ただしそこに至るためには無限の時間が必要です。
もし死後の世界などなければ天国も地獄もありません。善いことをしたら天国に迎えられて神の祝福を受ける。悪いことをしたら地獄で永遠の業火に焼かれる。なんてことはありません。(補足24) 青山にしてみればそんなことを信じている人が哀れに思えます。いずれにしても人間は誰もが死からは逃れられない。どれほど信心深い者であっても最後は死刑になるのです。だから死刑など恐れる必要は全くない。病気も恐れるな。借金も恐れるな。人間関係に悩む必要もありません。皆死刑です。死刑に怯えてやりたいこともできず、権力者の脅しに屈して政府に言いたいことも言えない。黙って生きながらえる。少しだけ死刑を先延ばしにする。あるいは権力者の尻をなめて雀の涙ほどのおこぼれを頂戴する。その方がよっぽど哀れに思えます。善人悪人に関係なく一人残らず死刑。ただし、その先には永遠の安らぎが待っている。そう信じて今こそやりたいこと、人間として正にこの瞬間やるべきことを為す。そこに生まれてきた意味、生きている価値が見出されるのです。(人間としてやるべきこととは何か?それは後ほど。)

 以上が、この青山の創作した「死後の世界」のシナリオです。この世界の人間つまり我々にとっては、死者は存在しません。あくまで「無」なのです。ただ亡くなった本人にとっては、死後の自分が存在する。永遠にそれは存在し続けるのです。
もしあなたが最愛の人を亡くしたなら、悲しみに沈んでいる心を癒してください。最愛のあの人は、幸福に満ちた世界に行ったのだと。そしていつまでも(永遠に)あなたの心の中で生きているのだと。
もしあなたの最愛の人が、悲惨な亡くなり方をした。自分はそれを救うことができなかったとしたら。今でもあなたの心の中に苦しんでいるその人がいることでしょう。それはこの先もあなたを苦しめ悲しませることになるでしょう。ただ、青山は断言して言います。もうその方は決して苦しんではいないと。静かな安らぎの世界に行ったのだと。
 ここで一言注意しておきます。人間は皆死ねば永遠の安らぎを得るとここで述べてきました。しかし実際に死んだらどうなるのか?本当のところ生きている我々に分かりません。永遠の謎です。しかしもし安らぎを得られるとしたら、この苦しみの世界から早く脱するために自ら命を絶った方がましだと自殺を試みるかもしれない。しかしそれは「自殺について」で述べている通り、人間は自ら死ぬことはできない。この世で生きている限り死ねないのです。死ぬことは許されないのです。
この世界は確かに苦しみしかありません。しかしこの世界で苦しみを経験し、何度も何度も苦しんで、さらにもっと大きな苦しみを味わった後、その果てに「死」という永遠の安らぎの世界があるのです。

(補足1)人が死んでも、エネルギー、情報その他はこの世から消滅しません。完全に残るのです。仏教で言う「不生不滅」、「不増不減」です。
人の死は科学的には単なる化学現象です。しかし「諸行無常」により、この世のすべては移り変わるもの。人間も含めて物体は絶えず変化します。
その変化した一つの状態(現象)を死と定義しているのです。

(補足2) この世で今生きている人にとっては、死亡により脳が消滅した人間には意識そのものはないと言えますが、亡くなった本人にとっての意識までないとは言えません。そもそも他人の意識などがあるのかないのか本人じゃないから分かりません。

(補足3) 「図93」で示した通り、一人の人間は時間ともに変化するのですから、まさに”その人”はその時点でしか存在しないと言えるでしょう。次の瞬間他人に変わるのです。また、自分の本性が”意識”だとすればそれは現時点でしか意味をなさないため、自分は現在しか存在しないと言えるでしょう。つまり過去の自分は他人に等しいというわけです。(自分も他者も含めて)人間は過去、現在、未来にわたって存在し続けるというのは、「自分とは何か」ということを誤って理解しているために起こる迷妄です。
ただし、誤解しないでください。今この瞬間のみ自分は存在する。過去にも未来にも自分はいない。ということは時間がなくても自分は存在できる?何かおかしいと思いませんか。時間が全くない状態を考えてみましょう。そこに意識など存在するでしょうか?意識は流れています。生きています。生きていることは、時間が存在していること。時間がなければ意識も存在しえないのです。意識は今現在しか存在しない。しかし現在正に時間は流れています。存在しているのです。
誤った死後観として、苦しんで死んだ者は永遠に苦しみのまま。喜びに満ちて死んだ者は永遠に喜びに溢れている。これはある一つの固定的な時刻で状態を捉えてしまったことによる間違った理解です。つまり生きている人間が死んだ人間を捉えているのです。そんなことはできません。(だから、生きている人間にとって死後の世界は存在しないのです) どうしてそんな認識になるのか?それは人間の思考がそもそも時間を無理やり固定化させて(止めて)世界を理解しようとするからです。時間が止まるなんてことはあり得ません。もし時間が存在しなければ、人間は苦しみも喜びも感じないでしょう。
時間は絶えず動いています。動いているから時間を意識できるのです。

(補足4) この世とあの世では自然法則としての因果律がないため、時間の進み方が異なる。あの世で神と長い間対話しても、この世での経過時間はゼロかもしれない。

(補足5) コーランの第56章に天国へ向かった者がどんな快楽を受けるのか、反対に地獄へ行った者がどれほどの苦しみを受けるのかが記されています。しかし青山にとっては、どっちが天国で、どっちが地獄か判りません。どちらも地獄のように思えます。例えば天国へ行けば、そこに若くて麗しい処女妻が控えていて、優しく寄り添ってくれるそうです。まあ二三日なら付き合ってもいいでしょう。ただし、一ヶ月間も毎日その笑顔を見ていたら気が狂ってしまうかもしれませんね。逆に地獄ではグラグラと煮えさかる熱湯を飲まされるそうです。即ち永遠の快楽または永遠の苦しみが待っているのです。(補足6)
なぜコーランの天国の描写、あるいは仏教の浄土思想における「極楽曼荼羅」の絵図が、あまりにも世俗的で浅ましく感じられるのか?それは結局煩悩を持ったこの世に生きている人間の想像の産物だからです。この世で生きている人間はいかに修行を積んだところで煩悩から完全に逃れることはできません。煩悩が完全に消滅した境地を仏教では「涅槃」と言います。この涅槃には生きている限り到達することは不可能です。釈迦ですら涅槃は死んだ後得られました。死ぬ前に得た涅槃は、所詮仮のものです。(補足7)

(補足6) キリスト教の教えでも、キリストを信じた者は天国で祝福を受け永遠の命が与えられる。と言われています。逆に不信仰の者は地獄の業火に投げ込まれると。しかし永遠の命を得たということは、永遠に死なないということです。死ななければ永遠に苦しみが続くということ。神からいつまでも褒められ続けるのは”苦”です。そこには褒められたい(あるいは死にたくない)という”欲望”(煩悩)がいつまでも消えずに残っているということです。だから褒められたら嬉しいのです。それでは本当の安らぎは永遠に得られません。「千年王国」など所詮苦しみの世界です。千年も苦しむのですよ。そして千年たったらどうなるのか?その後には地獄以上の苦しみが待っている?不安で一杯です。千年などあっと言う間でしょう。
本当の幸福、真の平安とは、”死”。欲望が消滅して、すべてが”無”になること、即ち仏教の”涅槃”です。これ以外はすべて偽りの幸福なのです。真の幸福とは、天国または極楽浄土に生まれることではありません。(極楽浄土は何のためにあるのか?そこはパラダイス(快楽の世界)ではなく、そこに生まれた菩薩は修行を完成させ、いずれ仏陀になるのです。)。あるいは死から逃れることが、永遠に死なないことが、幸福なのではありません。
つまりキリスト教やイスラム教で教える幸福は本物ではない。”死”即ちこの世からもあの世からも消滅すること、完全に消え去ることこそが誠の幸福なのです。だって苦しみの中で家族を、障害を持った子供を、年老いた親を、そして病身の愛する夫、愛する妻を、身命を削ってまで介護に尽くす人生、それが永遠に続くわけではない。もし永遠に続くとしたらそれは絶望でしかない。もちろん、愛する家族には永遠に生きていてほしい。その為に全てを捧げて今まで尽くしてきた。しかし、いつかは力尽きて、家族は死を迎えるのです。死から逃れることはできません。無論、家族の死は悲しい。できることなら家族にはその病魔を乗り越え、また元気な姿を回復してもらい、そして以前の楽しい日常が再び戻ることを願う。しかし、いつかは命尽きます。家族が死へ旅立ち、しばらく悲しみに暮れた後、今までの辛かった人生を振り返って、あなたはほっとすることでしょう。ようやく自分に安堵が訪れた。それは自分にとっても、そして死んでいった家族にとっても、幸福なことなのです。だから、今まで苦労して生きてきた亡くなった家族に向けて、「おばあちゃん。よかったね。」と。
即ち、死があるからこそ、救いがある。”死こそが救い”なのです。

(補足7) 日本の各地には霊場と言われるところがあって、行ってみるとそこは火山地帯で、大地が火山灰や溶岩に覆われ、ガスや熱水が吹きだしている場所が多いのです。火山国である日本独特の風景でしょうが、どういう訳かそこには地獄や極楽をイメージした名称(例えば「賽の河原」)が付けられています。ただ、なぜこの風景が、地獄や極楽に似ていると思ったのでしょうか?誰も本物を見た(あの世に行ってきた)わけじゃないのに?死んだ人が証言するはずないですから。こんなあの世のイメージなんかみんな嘘です。つまり死んだ人間ではなく、この世で生きている人間が頭の中でイメージしたものなのです。

(補足8) この世界に善悪の普遍的な(誰もが認める)基準なんかありません。法律は(一部の)人間が勝手に作ったものです。だから善人は天国へ、悪人は地獄へ行くこともないのです。なぜならもし、何が善で何が悪だとその基準を人間が知っているなら、人間は自分の行いによって天国に行くか地獄へ行くかを自由に選択できることになります。神はそれに従わざるをえない。ならば神は全知全能ではないことになります。ただし、善悪の絶対的な基準はあるかもしれません。もちろん神のみが知ることです。

(補足9) 悪いことをすれば必ず警察に捕まる。と言われますが、それは嘘です。犯人が捕まっていない犯罪は山ほど?あります。ただし、絶対に捕まらない完ぺきな完全犯罪なんか存在しません。捕まらないのは日頃の行いがいいから?嘘です。

(補足10) この世の苦しみを知るとは、この広大無辺の宇宙の隅々まで見渡すことです、さらに過去に起こった出来事も含め全てを直視することです。あたなはこの世の悲惨さを直視出来ますか、あなたはこのあまりにもひどい惨状から目を背けずにいられますか?その苦しみに耐えられますか?あなたはきっと卒倒してしまうでしょう。それが(良心を持つ)人間というものです。
この世以上の地獄がない根拠は、もしあなたが考えられる限りの苦しみを思い浮かべたとしましょう。あなたが思い浮かべた苦しみはこの世で実現されます。なぜならあなたが”この世”で思い浮かべたものだから。もし思いもよらなかったとてつもなく大きな苦しみがあなたを襲ったら(例えばあなたの身体が朝目覚めたらイモムシに変わっていて、鳥についばめられたなら)、それはあの世ではなくこの世の出来事(なぜならイモムシはこの世に存在します)です。いずれにしても苦しみとは自分の欲望が満たされないことをいうのです。欲望さえなければどんな地獄もありません。苦しみもないのです。つまり、どんなに大きな苦しみであっても、その苦しみがあるということは、本質的にはこの世とまったく同等です。しかも自分がその世界に行くということは、因果律が成り立っていること。すなわち、この今の世界と何ら変わりはありません。(補足11)
※例えば、金星という星があります。金星は太陽系の中でも地球に近い位置にあり、大きさも地球とほぼ同じです。ただし、気温は摂氏460度、気圧90気圧。気体の大部分は二酸化炭素で、雲は濃硫酸。こんなところで生物は生きてはいけません。まさに地獄です。それに対して地球は温暖で生物に満ち溢れています。まさに天国です。つまり地球以上の地獄があること。金星に行けば地獄を味わえます。ただし、金星も”この世”の存在なのです。(金星が地獄で地球が天国と言うのは単なる勝手な決めつけ。生命体によっては、金星が天国で地球が地獄かもしれない)
人間にとって(他の地球上の生物にとっても)地球が最適なのは、みなこの地球で誕生したからです。宇宙を探しても地球以外に素晴らしいところはないかもしれない?今あなたが生きている環境があなたにとって最高の場所かもしれない?ただしこの地球でも夏は猛暑。冬は酷寒です。まさに地獄です。(住みづらい) 否、夏は暑いのは当り前。汗をかくのは当たり前。衣服が汗臭くなるのは当り前。と思えばそんな苦痛は感じません。暑いのは嫌だ。汗をかくのは嫌だ。汗臭いと言われるのは嫌だ。と思うところから苦痛が生じるのです。
重要なことは、そもそも天国も地獄もないのです。この世界はあくまで「空」ですから。「苦しみ」は精神的なもの、あるいは個人的にものです。物理的なもの、あるいは普遍的なものではありません。”金星”を地獄と感じない人にとって、苦しみなどないに等しいのです。

(補足11) 人間が頭の中で想像し得る、こんな世界に行ってみたいと思う「天国の世界」。あるいは、こんな世界には行きたくないと思う「地獄の世界」。それは二つともこの世界における人間の思考であるから、この世界において(何らかの方法で)実現できる。つまり天国も地獄もこの世界の一つの状態である。しかも二つとも人間の煩悩(こんな世界に行きたいという自分の欲望)によって造られたものであるから、所詮地獄である。それに対して死んだ後自分が赴く世界は、想像をはるかに超えた喜びの世界であり、この世界においてはイメージすることすらできない。もしイメージできるとしたら、この世界の一部ということになる。では、イメージできないほどの地獄(苦しみの世界)はあるか?イメージできないのであるからそれは地獄ではない。地獄とはこの世界において、行きたくないという願望から作られるものであるから、イメージできないことはないのである。もしも(苦しい、行きたくない世界と)イメージできないのなら、自分にとってそれは”地獄”ではない。

(補足12) この世が地獄に思えないのは、地獄に慣れ切ってしまっている精。地獄に毒されている精です。頭を使って考えれば分かることなのですが、人々は頭を使っていない。結局はこれも自然淘汰によって身に着けた性質。すなわちこの世を天国だと思わせることによって、人類は生き延びてきたに過ぎないのです。

(補足13) 生きている今悪を行えば、(それがどんなに些細なことであっても)必ず次の瞬間報いを受けます。それは大変な苦痛(後悔)を伴うでしょう。例え次に死が待っていようとも、次の瞬間は永遠に訪れません。悪を為した者はあまりの苦しさに次の瞬間まで待つことができないのです。苦しみにさいなまれている今現在が永遠に続くのです。待てない者は永久に死ねません。この世に生きている限り苦しみから解放されることはない。つまり報いは消えることがない。
しかし、それ相当の苦しみを味わったなら、そこから解放されるでしょう。いずれ安らかな死が訪れるのです。なぜならこの世は無常だから。(補足14)
「無常」ということは、ある意味すべての衆生に”仏性”がある根拠でもあるのです。悪人がある時は鬼の心を持っていたとしても、次の瞬間は慈悲の心を持つかもしれません。

(補足14) もしあなたが若い時分に何か大きな罪を犯してしまい、そのことにより心の底から反省し一生をかけて償っていくと誓ったとしよう。しかし、生きている限りその罪の意識は時間とともに薄れていく。つまり先(将来)があるという意識にはそこに必ず”甘え”が生まれる。あなたが生まれながら持っている粗暴性、残忍性は一生消えることがない。更生を期待されているにも関わらず、一方世間の冷たい扱いにいつしかあなたは本来の暴力的性格を呼び戻し、再び凶悪な犯罪を犯すだろう。そしてその結果を意識するたびに「悪いのは自分ではない。他者だ」と自分をどこまでも弁護する。それを死ぬまで繰り返す。何度も何度も。
人間は本当の死が訪れない限り、自分に甘えのうのうと生にしがみ付き、何事も楽な方を選択して周りと自分を誤魔化しながら生きていくことになる。しかし絶対に死から逃れられない。もはや生は無いところまで追い詰められたその時こそ、いかなる甘えも誤魔化しも許されない、(それがどんな些細な罪であっても)地獄以上の果てしない永遠の苦しみと、死よりも遥かに勝る激しい懺悔を味わうことになる。

(補足15) そもそも人間は皆例外なく(釈迦もイエスも)悪人なのです。人間に善人悪人の区別などありません。たまたま善人だった。たまたま悪人になっただけです。場合によっては釈迦とダイバダッタが入れ替わっていたかもしれない。悪人に対しては罰するのではなく救うのです。

(補足16) この世で因果的に閉じているとは?
もしあの世とこの世が完全に因果関係(因果律)を持つと、あの世もこの世も同じ世界の一部とみなされます。つまり一つの家の二つの部屋にたとえて、部屋Aと部屋Bは一つのドアでつながっているとします。もしある人、その人を田中さん(Mr.TANAKA)としましょう。この部屋Aと部屋Bは完全に因果関係が成り立っているとすれば、Mr.TANAKAが、部屋Aからドアを開けて出ると同時に部屋Bのドアが開いてMr.TANAKAが入ってくる。もし部屋AからMr.TANAKAが出たのに、部屋BにMr.TANAKAが現れなければ因果律的おかしいのです。またMr.TANAKAが部屋Aにいるのに、部屋BにもMr.TANAKAがいる。というのも変です。これらはすべて因果関係が成り立たない例です。ではこの世で因果関係が成り立っているということは、この世から何かが無くなるか、または突然何かが現れる。なんてことは起こらない。仏教でいえば、「不生不滅」、「不増不減」です。
では、もしあの世があるなら、意識が突然この世から消えてあの世に現れる(あの世に行く)ことは、この世が因果律的に閉じているなら起こらないことだと思いませんか?
いいえ、ここまで読んでこられた読者の方にはもう分かると思いますが、”意識”などというものは実在しないのです。従ってこの世から何かが無くなるわけではないのです。

(補足17) 死人に罪は問えません。なぜなら存在していないのですから。なぜ犯罪者の罪を我々生き残った人間が代わりに償わなければならないのか、と不満に思うかもしれませんが、我々に罪が無いと言えるでしょうか?我々にも当然罪はあります。犯罪者に罪を犯させてしまった責任があります。自分の過ちを棚に上げて、死人に罪を着せようなんて、あなたは少し甘いのではないでしょうか?
既に亡くなっている青山の祖母が生前為したこと、行ったことの業(ゴウ)は、その子供である青山の父が背負うのです。そして青山の父が生きているうちに為した業は、すべてこの青山が負います。それは仕方がない事です。青山は今現在この世界に生きているのですから。しかし青山の祖母が為した業、そして青山の父が為した業は、ともに日本の総理大臣もそしてブラジルの大統領も背負うのです。関係ない?いいえ、関係ないわけがありません。なぜならこの世界のすべては縁起によって繋がっているのです。

(補足18) 死者から見ればこの世は仮。逆に我々から見れば、あの世が仮なのです。

(補足19) 最近年齢の精か?あるいは身体を壊してしまった精か?考え方が少し変わってきました。確かに「試練」などないでしょう。しかし(神の)意図ではないにしろ、人生には様々な困難な出来事がある。それを乗り越えられるか乗り越えられないか。もし乗り越えられたなら、それは自己の成長を意味します。それもいい経験だったとつくづく思うでしょう。困難はこれから先も度々訪れることでしょう。どんな困難が訪れようと、人間はそれに耐えていくしかないのです。

(補足20) 人生は一度しかない。そして世界に意味などない。そう思うからこそ、何事も恐れず、自分の意志によって自由に人生を生きることができるような気がします。もし地獄があると思うなら、人はそれ(神や罰)を恐れて自由にやりたいことができない。つまり(宗教の)奴隷として生きるしかないのです。輪廻転生を信じている人の方が消極的な生き方しかできない。人生思いきったことができず、何一つしない内に人生を終えてしまう。そういった何もしないでただ生きるだけの人生を(輪廻を信じているがゆえに)何度もあるいは無限に繰り返すのです。
人生には失敗がつきものです。特に取り返しのつかない大失敗をしてしまったら、誰もが後悔するでしょう。輪廻転生でいうように人生が何度も繰り返されるなら、その失敗を取り返せるという気持ちが自分を安堵させるのです。人間はたとえ事実であっても、不快なことはできれば無かったことにしてしまいたい。嫌な過去を抱えたままで生きるのは耐えがたい苦痛。特に何か大きな犯罪を犯してしまった者にとっては、この輪廻の考え方は救いなのです。人生をまたやり直せるから。しかしここに甘えがあります。こんな輪廻みたいな考え方にしがみ付いていたら、人間はいつまで経っても更生しない。大きな犯罪を犯した者はその後死ぬほど後悔するでしょう。その精神的な苦痛にさいなまれるでしょう。しかし輪廻を知れば、いつかは償えるという希望が生まれます。いつかは償える?そんな悠長なことを言っているようでは、永遠に償うことなど不可能です。しかも一度起こしてしまった事実は、絶対に帳消しにはできません。その事実は永久に残るのです。一度は反省するでしょう。しかしいつしか反省は消えまた同じような犯罪を犯す。そして再び後悔する。犯罪と後悔を無限に繰り返す。それが輪廻の真の意味です。なせなら、犯罪者にはそういった犯罪を犯すという因縁がいつまでも付きまとうからです。犯罪が悪であることを知っている者は、最初から犯罪など犯しません。
仏教の説く「輪廻」からの解脱するには、この因果の法則を理解し、また空や縁起などの真理を体得することにより、「輪廻転生」などの考え方を捨て去ることです。自分は今この瞬間しか存在しないこと悟るのです。
人生は一回限りと思う人は、今この瞬間にすべてを掛けるのです。なぜなら次の瞬間死が訪れて人生が終わるかもしれませんからね。人間は今しかないのです。過去から未来にまで自分というものが続いているなどいうのは誤った思い込みです。なぜなら自分とは”意識”のことですから。
それでも「輪廻」を信じたいならどうぞ。いつまでたっても安らぎを得られない空しい”生”を永遠に繰り返したいなら。まだ分かりませんか?永遠の生とは苦しみのことです。死とは永遠の安らぎのことです。

(補足21) ただ、残された家族は悲しむでしょう。そうです。悲しみとはこの世界だけのものです。亡くなった人はきっとすべてを悟って満足して死に赴いていることでしょう。
逆にこの世の側からの願望としてよくある話。世間ではよく「孝行したいときに親はなし」と言われます。年老いた親に子供として色々してあげたい。喜ばせたい。旅行に連れて行ってあげたい。おいしい物を食べさせてあげたい。後で後悔しないように、生きているうちに、ああしてあげたい。こうしてあげたい。
それでは結局きりがありません。もしすべての願望をかなえたいのなら、親に永遠に生きていてもらうしかないのです。そんなことは絶対無理です。いつかは旅立つのです。本当に親孝行したいのなら、普段から良くしてあげることです。そうすればいつ旅立たれても後悔はしないはず。例えば昨日から(贅沢なこととは別に)親によくしてあげようと思った。それが今日になって亡くなってしまった。いや、そのたった一日のお蔭で、親も満足して死ねるでしょう。生き残った我々もそう思うことによって、きっと心が安らぐことでしょう。

(補足22) 業とは、ある人間が生きている間に為したことが、その身体に刻み込まれること。その業によってその人間の未来に影響を及ぼす。ただし、死とともにその人間が消滅すれば、それが死後の世界にまで影響することはない。(従って輪廻転生もない)
例えば何か大きな犯罪を犯した者は、その影響をこの世に残したまま死ぬ。その影響によって長い長い月日にわたり報いを受けるとこになる。それをこの世の者(つまり我々)にとっては、「あいつは今無間地獄に落ちていて、後56億7千万年苦しめられる」などと言うが、実際その人間はこの世にはいないため、何一つ苦しんではない。この業の報いを受けるのは、この世に生き残った我々である。そして影響は未来永劫続くのである。

(補足23) 夢を見ている時間と実際に眠っている時間は一致しません。夢の中で世界一周をしても、実際は5分も寝ていなかった。また夢を見ない眠りの場合は、実際は8時間寝ていたとしても、意識的な時間はゼロです。

(補足24) 人間は誰一人例外なく、生きているうちにとてつもない悪を行うのです。即ち食べるためであっても何かしらの殺生を行う。それがどんな小さな生物の命でも、それを奪うことは取り返しがつきません。それに対して生前、全ての衆生に対して何かしらの善を行った者はほとんどいない。即ち全員死後は地獄へ行かなければならないことになるのです。(補足25)
歴史上記憶に残る善人も、あるいは凶悪犯罪者も人間であるという点ではまったく同じであり、その差はわずかしかありません。ともに動物としての本能的性質を少なからず備えています。人に勝って優位な立場を作りたい。他人を思い通りに支配したい。相手から奪いたい。不祥事を隠しておきたい。恐ろしいことから逃げたい。悪いことが見つかり刑務所に入れられるのは嫌だ。人から尊敬されたい。隣人を愛したい。他人のために尽くしたい。これらは全ての人間にあります。偶々Aという傾向(他人から奪いたい)が人より強い者が犯罪者となり、偶々Bという傾向(他人のために尽くしたい)が顕著な人が偉人として称えられているに過ぎないわけです。

(補足25) 人間は例外なく悪を為す。生きている間は必ず罪を重ねるのです。この世で一番の悪である殺生という大罪を。その他、人を騙す。誤魔化す。人の心を踏みにじる。相手を傷つける。他人に迷惑を掛ける。どれほどの聖人であっても(釈迦やイエスでも)生きていれば罪を犯す。数え切れないほどの沢山の悪を為すのです。これは生きている限りどうにもならない。生きるということは即ち、罪を犯すことなのです。
人生長ければ長いほど、重ねた罪も多い。80年間生きた者は、8歳で死んだ者より10倍も悪を為す。それに対して”善”など一つも行わない。どのような歴史上の偉人であっても、善い事など針の先ほども行わず、ただ悪を為しただけの人生を終えているのです。従って、人間はいずれも地獄へ赴き、そこで未来永劫苦しみを受けるのです。全ての人間は生前為した”業”(行いの報い)によって地獄に堕ち、そこで永遠に罪を償うのです。なぜなら、その者が為した業は永久に消えることがないから(その者の行為の結果、世界が受けた影響(因縁)は永久になくならないから)。ただし、実際にその罪を負うのは、理不尽にもこの世で生きている我々なのです(死者はこの世界においてはあくまで”無”だから)。ただこの世界は”空”であることにより、死者もそして我々も、いずれ永遠の未来において、一切の罪が消滅した涅槃(無)に到達することでしょう。

死後の世界即ち「あの世」と「この世」を比較してみると、この世界の特徴が分かります。
この世=自分の他に他人が、つまり”隣人”が存在する世界、あの世=独我論世界。
この世=苦しみの世界、あの世=すべての苦しみが滅した世界。
この世=すべてのことに意味がない世界。即ち”空”、あの世=すべてに明確な意味が存在する世界。

 もしかしたら、ここで述べたような「死後の世界」などないかもしれない。つまり完全に”無”になる。(完全な無なら、苦しみから逃れたという喜びもありません。ただし、その”喜び”があるということはまだ煩悩が消えずに残っていることを意味する) 青山個人としては、たとえ無になったとしても、”死”そのものは恐れてはいません。恐れているのは死ではなく、苦しみの中で(この世でまだ)”生きている”ということなのです。死ねば地獄に至る。そこで永遠の苦しみを受ける。そう教える宗教がありますが、永遠の苦痛などないと思います。そこでは恐らく”苦”を感じないことでしょう。なぜなら”苦”しかないから。(補足26) 本当の地獄はこの世界です。なぜなら、苦も楽もあるからです。しかしいずれこの世界を去るのです。すなわち救いがあるということです。

この世=苦しみも楽しみもある世界。苦しみも楽しみも永遠には続かない。(諸行無常だから) 苦しみと楽しみが交互に訪れる。
地獄=苦しかない世界。苦が永遠に続く。苦しかないから苦そのものを感じない。
天国=楽しかない世界。楽が永遠に続く。楽しかないから楽そのものを感じない。苦も感じない。何も感じない。それは自分が存在していないのと同じ。即ち(仏教の)「涅槃」。

(補足26) 「ああ、苦しい!!助けてくれ!!」と感じる(思考や感情に余裕がある)なら、一時的にせよ苦から解放されたことになるから(苦しかないなら、苦だと感じる(思考の)余裕すらない)、それは苦と苦からの解放が交互に訪れているとみなせる。苦と楽が交互に来る。それは即ち(我々が生きている)この世と同じです。即ち、「地獄が怖い」、「地獄なんか行きたくない」と死ぬほど地獄を恐れているこの世こそが、地獄そのものなのです。

 つまり「地獄」などは存在しない。この世で善をなした者、神への信仰厚き者は死後天国に生まれ、悪をなした者、神を信じない者は地獄に堕ちる。何て話はみな間違いです。この世で善悪をなせば、この世で報いを受けるのです。地獄なんてものは、宗教団体が信者をつなぎとめるためにこしらえた嘘に過ぎないのです。

最後に
 ここで示した「死後も自分は存在し続ける」(つまり自分は永遠に死なない)という話は、あくまで青山の創作です。それを証明することは不可能です。あなたに信じてもらいたい訳ではありません。
ただし、人間とは何でしょうか?自分の本質とは何でしょうか?それはここで示した「意識」なのです。身体が自分の「本質」であるはずがありません。(なぜなら身体は自分で観測できるから) この意識は精神世界のもので、その存在を確認はできません。しかしもし意識がなければ自分も存在しないことになります。自分は確かに存在する。なら永遠に死なない意識が確かにあるということです。ただし、あくまで自分だけは存在する。つまり「独我論的自分」は存在する。(「独我論」とはこの世界には自分のみが存在するという考え方。「独我論とは」参照)
ただし、自分が存在するなら、(この世界においては)隣人も存在するであろう。もし隣人が存在するなら、その隣人にとっても意識は永遠であるに違いない。あくまで想定です。自分は隣人(あなた)ではないから、それは分かりませんが。その隣人のために、あえてここで死後の自分の話をしました。
この世界において、実体はあくまで観測されるもの。時間空間以外にはありません。宗教の説く精神宇宙など”まやかし”です。世界はただ「空」なのです。そこに一切の意味も目的もありません。しかし意識を語れば、自然に”精神”の話になります。ここでいう精神は青山の独断です。ただ、もし隣人であるあなたに(苦から逃れられるという)希望を与えることができるなら、実体はありませんが、死後の自分について語ったことは、無意味ではなかったと思います。
要するに意味のないこの世界の実態において、(自由に)意味(その中には神や死後の世界も含まれる)を創造できるのは自分(青山そしてあなた)なのです。

 では、青山自身は”死”ぬのが怖くないのか?と問われたら、「怖くない」とは言えません。地獄はないと思っていますよ。死んだら、ここで書いたようになる。安らぎの世界に行くと信じています。そう信じたい。しかし当然青山も死んだ経験はありません。だから分からない。本当に安らぎが待っているのか?本当に地獄なんかないのか?もしかしたら地獄があるかもしれない。という不安。そして恐れ。誰も死んだ経験がない以上、人に聞いても無駄です。既に死に赴いた人々は何も語らない。死ぬ瞬間に、恐らく何かはあると思います、とてつもない恐ろしいことかもしれません。誰も分かりませんが。だから死は誰にとっても恐ろしい。「俺は死ぬことなんか怖くない」と言っている人がいますが、本当でしょうか?本当だとしても死んだらどうなるかは知らないはずです。やはり一抹の不安はあると思います。誰にでも。死を恐れるのは動物としての本能です。すべての恐れは最終的に死に繋がっているのです。死を恐れるからこそ、人間はここまで生き残ってきたのです。
では、この恐怖心をなくすことはできないのか?恐怖心をなくすことはできなくても、それを忘れることはできます。それは人を愛すること。あなたがこの世で唯一できることは、隣人をひたすら愛することです。人を愛している間自分にとっての死の恐怖を忘れさせてくれるのです。自分のことを考えてしまうから死に対する恐怖心が起こるのです。その愛は、もちろん無償の愛です。何一つ見返りはありません。あなたがどれほど尽くしても相手には気付いてもらえないかもしれない。それでも人を愛するのです。命を捨てる覚悟で相手に尽くすのです。この人のためなら死んでもいいと。例え地獄に落ちても悔いはない。否、地獄がどんなところか見てきてやる。むしろ地獄へ行くことが楽しみ?
だから愛する人を求めましょう。目の前にいる人でもいいじゃありませんか。たった一人でいいのです。愛する人を得てください。せっかくこの世に生まれてきたのに、あなたはどこまでも孤独で、愛する人が一人もいないなんて、生きている意味がないじゃないですか。その一人の隣人を神様として、自分の命を捧げて尽くし切る。これがこの世に生きている間死に至るまでに、あなたができうるたった一つのことです。

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