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死に向かって 釈迦とイエスの生き方


死に向かって生きる
 この世に生まれてきた者は、どんなに嘆き悲しんでも遅かれ早かれ皆死ぬのです。当り前ですが。
ところで人間の死に方は、たった二通りしかない。簡単に言えば、一つは、
「自ら死を選択する」
と、もう一つは、
「他によって殺される」。
要するに自分で死ぬか、殺されるか、そのいずれかしかないのです。
人類誕生以降たくさんの人間が死んでいますが、一般的には後者(他によって殺される)の方が圧倒的に多いのです。
「他によって殺される」とは本人はあくまで死にたくはない。しかし外的要因で死ざるを得ないもの。一般的な病死も事故死も自殺も他殺も、すべてこれに当てはまります。
そして人間として生まれてきた以上、どうせ死は免れないのなら、前者の死に方(自ら死を選択する)が望ましいと言えます。
「自ら死を選択する」というのは一般的な自殺と誤解されそうですが、自殺する者は本当は死にたくはないのです。(「自殺について」参照) 何らかの外的要因(病気や借金、あるいは芥川龍之介の”ぼんやりとした不安”)により死を選ぶよう強制させられることです。借金で悩んでいる者が、突然財産が転がり込んできて、借金を返済したどころか、大金持ちになったとしても、なお死を選ぶでしょうか?
「自ら死を選択する」とは死から逃げないということです。

釈迦とイエスの行き方
 青山が知る限り、この「自ら死を選択する」によって死んだ者は、釈迦とイエスぐらいしか思い浮かばないのですが。(補足1) 釈迦は自分が死ぬのが分かっていたでしょう。それでも彼は説法をし、道を歩み続けた。最後の最後まで。イエスも当然殺されるのを解っていた。それでも生き方(死に方)を改めない。青山は個人的には釈迦よりもイエスの方が立派だと思いますが。二人とも一度決めた生き方、あるいは死に方を変えなかった。死から逃げない姿勢。どこまでも自分の信念に生き、生き方を貫いたと言えるでしょう。我々はその死に方を手本とすべきでしょう。人間として。(補足2)
戦前、日本に「特攻隊」というものがありましたが、これはこの「自ら死を選択する」に該当するでしょうか?
難しい問題ですが、もし日本軍が優勢に戦況を展開していたなら、そもそも特攻隊など作られたでしょうか?
人間の一生を喩えて言うとこう説明できます。
人間には生きていく上で様々な障害があります。障害とは究極的には”死”のことです。前を歩いていたとき、突然の目の前に死が現れたら、人間誰しも死にたくはないという本能が働き、それを避けようとするでしょう。前に進んでいたら右か左に避けるわけです。仮に右に避けたとします。するとまた前から死が現れました。今度は左に避けます。このように死が現れたらそれを避けながら進むのです。これが人生です。うっかりしていたら死に突き当たって、そこで人生は終わりです。
死をうまく避けつつ、一日でも長く生きようとしても、死はいたるところに現れます。どちらの方向にも死は存在するのです。左に避けた途端目の前に死が。慌てて右に避けても、既に右には死しかありませんでした。最後には避けきれず死に突き当たってしまう。ここまで生まれてからどれだけの歳月がかかったかわかりませんが(仮に80年かかれば享年80歳)、いつかは皆こうなるのです。
ここで、「自ら死を選択する」とは前に死が現れても、決して避けない。それでは死んでしまうだろうと言われるかもしれませんが、避けてもいずれ死にます。
如何に死を避けて、少しでも長く生き残る。これじゃまるでゲームだ。人生はゲームじゃありません。人間たるものがそんな遊びに現を抜かすバカでいいのでしょうか?長生きしたからと言って何の意味も有りません。(なぜなら人生生きている間に何をしようが、いずれ人々の記憶から消え去る)
「自ら死を選択」した人は、自分の生き方(生きる目的)を自分で決めて、「自分はまっすぐここを進むんだ!」と強い決意を持って生きているのです。例え死が目の前に現れようと、「自分は生き方を変えないぞ!」 そういう姿勢を持つ生き方を指します。もちろん敢て危険に立ち向かうことではありません。例えば事故の危険性がある。自然災害に巻き込まれる恐れあり。死ぬのが分かっていながら避けない。そうではありません。それは単なる危機管理意識の欠如です。ちゃんと避けるべきは避けるのです。もしそんなところで死んでしまったら、せっかくの命を無駄にしてしまいます。そもそも自分はこのために死ぬんだという”目的”そのものが果たせませんからね。
我々は人間なんですから、ただ本能から死を恐れて(死を恐れるのも自然淘汰の産物)、生きる指針すら持たず、獣のような生き方はもうやめましょう。生き残ったからと言って何の意味もありませんから。人間は明確に生きる目的を設定し、死んでも決して指針を変えない。まっすぐに行くのみ。
人間はいずれ死ぬのです。死ねば「無」になるのです。どうせ死ぬなら、自分(のみ)に忠実に生きようではありませんか?生きる意味を見出して生きることは、即ち生き甲斐を持つこと。生き甲斐を持つことは”このために生きるんだ”という自分独自の指針を持つこと。そして生き甲斐を持つことは、自分は”このために死ぬんだ”というある意味「死に甲斐」を持つことです。
この死をも恐れずに生きる指針の源は、究極的には”愛”です。仏教では苦しみの根として、最も抑制しなければならないものですが、この「愛」がなければ人間は生きる指針が得られない。この点についてはまた後程。

不殺生
 仏教の五戒の中でもっとも守りがたいものが、「不殺生戒」です。生き物を殺して食べないと、自分が生きていけません。無益な殺生をしてはならないとよく言われますが、”無益”って何ですか?(逆に”有益”って何?) 人間の勝手な解釈でしょう?(「菩薩と修行」参照)
はっきり言って人を殺すのも殺生。蚊一匹叩き潰すのも殺生。人間100人殺すのも(その際は死刑になるが)、蚊を一匹殺すのも、殺生と言う点ではまったく同じです。(殺した数によって罪が重くなるなんて話はない)
既に死んでいるもの、腐っているものなら食べてもいい?僧侶の言い訳として、漁師が釣った魚は食べてよし?農民が刈り取った作物は食べてよし?既に死んだものだから(食卓に上がる際は誰かが前もって殺している)、食べてよし?そんな話はありません。罪を漁師や農民になすりつけるとは由々しきことです。共犯は共犯、殺生は殺生です。いかに菜食主義の坊主も殺生をしているのです。現代(特に日本)の僧侶は、妻帯はする。肉や魚を平気で食べる。ろくに修行もしない。インチキ坊主ばかり。そんな坊主ははっきり言って僧侶の資格なし。さっさと環俗(在家に戻れ)せい!(補足3)
ただし、殺生する生き物自身も何かを食べています。人間だけではありません。すべての生物は殺生しているのです。(補足4)
自分がその前に捕らえて食べれば、その分の殺生は防げます。つまり殺生を防ぐために殺生をしている。ただし、これも殺生には違いはありません。自分が何かをしても、それが殺生の要因になっています。(漁師や農民のように)直接殺さなくても、何らかの殺生に関わっています。(殺生したものをお金で買う。需要者の役をしている) つまり共犯です。どんなに慈悲深い人でも、(間接的には)殺生していることに等しいのです。例えは息を吸えば小さな昆虫や微生物を口に吸い込んで殺してしまう。逆に息を吐けばそのガスで微生物を殺す?かもしれない。歩けば足もとの虫を踏み潰すかもしれない。手を上げただけで何かを殺すかもしれない。話をしただけで(「何々を食べたい」と人に話す)、それが殺生につながる(人から施しを受ける)要因を作っているのかもしれない。自分が意識するしないに関わらず、生きていること自体が、殺生をすることそのものなのです。そして殺生したものは、必ず自分も他によって殺されるのです。百獣の王ライオンも殺される。もちろん人間も殺される。それは殺した者の宿命です。この世に生まれてきた以上、いつかは殺されるのです。(補足5)
だから何も食べない。何も飲まない。呼吸もしない。何一つ(歩くことも立つことも)動作しない。心臓も動かさない。だったら自分が死んでしまう。これも自分に対する殺生です。(補足6) 例えば、人生生きているのが辛くて死ぬ。この苦しみから逃れたいと思って自殺する。これももちろん殺生です。(従って、僧侶にとって自殺することは破戒)
この絶対不可能な「不殺生戒」を成し遂げる方法があるでしょうか?有りません。生きている限り不可能です。もちろん死ねば殺生もしなくて済みますが。
青山の考えでは、殺生は必ずしも”悪”ではないと言うこと。なぜなら、自分が殺生しなくても、生き物はいずれ死ぬのです。また、殺生を止めるための殺生もあるでしょう。
そしてもう一つ。殺生するのも”慈悲”の内だということです。詳しくは(特に誤解されるので)後程述べますが、慈悲の心があれば相手を殺してもいいということ。それは法に触れた犯罪者を死刑にしてもいいというのとは違います。死刑はあくまで殺人です。野蛮な行為です。その点は絶対に誤解しないでください。(補足7)
まず青山が言いたいことはこういうことです。人間はなぜ生き物を捕らえて食べる(殺生をする)のでしょうか?食べないと死ぬからでしょうか?食べてもいずれ死にますよ。少しでも長生きしたいから?長生きする意味などどこにもありません。「長生きは素晴らしい」というのは単なる思い込みです。(補足8)
長生きしたいとか生き残りたいというのは、生物の本能としてある「死にたくない」という願望から来た欲望の一種です。この生き残りたいという願望は、最後には叶えられず死を免れない。それは人間の他の生物にも言えることです。
そこでこんな浅ましい(動物としての本能からくる)捕食欲(食べたいという欲求)を捨てることにより、少なくとも食べるために殺すという殺生は防げるのではないでしょうか?そこに、死を恐れるから(食べるために)殺す。死を避けるために殺す。という生き方を捨てて、どうせ死ぬなら、人間として「自ら死を選択する」という生き方に変える意味があるのです。
「不殺生戒」。この絶対不可能な戒律を達成するために、この「自ら死を選択する」という生き方があるのです。つまり釈迦やイエスの生き方は、この殺生を超越した?と言えるのです。
人間、この世に生まれてきたからには、何かのために死ななければなりません。自分はこのために死にたい。こんなことのために死にたくはない。その死に甲斐、生き甲斐を見つけること。いずれ死ぬのなら、死に向かって生きる。決して逃げない。それが人間の生き方だと思います。青山個人としては、どうせ死ぬなら、国家や人類のためには死にたくない。こんなことのために殺されるのはまっぴら。いずれ死ぬのなら、一人の隣人のために死にたい。と思います。その隣人とは誰だか分かりませんが。

(補足1) 釈迦とイエスは、生まれも育ちも正反対。釈迦は王家に生まれ、イエスは貧乏人の生まれ。釈迦は長命、イエスは短命。しかし生き方や考え方は不思議と似ています。ともに清貧に生きた偉人です。それに対して現代の宗教の教祖は清貧とはほど遠い金儲け主義。釈迦もイエスも金儲けのことなど全く頭にない。歴史上金を儲けた偉人など一人もいませんから。

(補足2) しかし誤解してはいけないこと。釈迦もイエスも超人ではありません。生身の「人間」です。聖者と言うよりも「賢者」と言うべきでしょう。
このことに関して一言。宗教関係者の中には、釈迦やイエスを神あるいはそれ以上の存在として、あるいは自分たちの教祖を神の代理人として崇め奉っている人たちがいます。青山個人の意見ですが、はっきりいって人間を神に祭り上げること自体、頭がおかしいとしか言いようがない。もちろん自分一人が何を信じようと自由ですが、釈迦もイエスも普通の人間だということです。人間なら誰しも、母親の身体から生まれますよね。そして物を食べる。排泄する。(オシッコ、ウンコ) そして最後は死ぬ。まさにその通り。我々と何一つ変わりません。よく考えてみて下さい。

(補足3) 話は多少逸れますが、日本では明治時代より前に(庶民の行く)学校はありませんでした。子供たちはどこで勉強を教わったのか?それはお寺です。先生はお坊さんです。当時お坊さんは何んでも知っているナンバーワンの知識人でした。親は読み書きができないため、子供たちを勉強を教えてくれるお寺に預けたのです。子供たちは掃除や洗濯などお手伝いをさせられた(現代でいえば児童労働)他、読み書きそろばん(簡単な算数)を教わり、さらに礼儀作法を厳しく?教え込まれたのです。ただし子供たちにとって一番楽しい時間、それは友達や坊さんと遊ぶこと。お坊さんは沢山の遊びを知っていました。お坊さんは遊びの天才です。
最近は子供たちにしつけすらできない親たちが、子供を軍隊に入れて厳しくしつけてもらう風潮があるそうです。しかし軍隊とお寺は決定的に違います。お寺では命の尊さを教える。もともと仏教は不殺生により命を大切にします。子供たちが虫などの小動物をむやみに捕まえて殺そうとするところを、お坊さんが戒めて、「こんな小さな虫でも命があるのだよ」と諭すのです。だからお坊さんは平和主義者です。こんな命の尊さあるいは平和の重要性を教える本来の人間教育が最近おろそかになっているような気がします。

(補足4) 植物であっても殺生をしています。植物は一般に自ら殺生はしません。(食虫植物は別) ただし、死んだものから栄養を取り入れている点で、僧侶の言い訳と同じです。

(補足5) 我々人間も含めて動物たちは、殺生をすることを本能的に恐れている。なぜなら必ずその報いを受ける。自分も殺されることを知っているから。そこに犯罪抑止の効果がある。しかし生きている以上、殺生せずにはいられない。

(補足6) ジャイナ教(古代インドの宗教、今日でも続いている)の教祖マハービーラは、何も食べない。水すら飲まない。何も着ない(常に素っ裸)。呼吸すらしない。それにも関わらず生きていたという伝説があります。それは無理にしても、今でもジャイン教の僧侶は裸だし、信者は極力殺生をしないように努めています。

(補足7) イエスは死刑に処せられました。イエスは合法的に殺されたのです。もし死刑を容認するなら、イエスを殺した者にも罪は一切ないことになります。

(補足8) 長生きは素晴らしいという考え方も、所詮は人類と言う種が生き残ってきた長い進化の歴史の上で身に着けたもの。少しでも長く生きたいという願望があったからこそ、人類は生き残ってきたのです。つまりその考えも、「自然淘汰の産物」です。(「自然淘汰とは何か」参照)

最後に
 思うに釈迦もイエスも”宗教”そのものに否定的だったのではないかと見ています。人々が弱い心を偽るためにそこに依存するもの、権力を握って人々を圧迫するもの。それが宗教だと見抜いていたと思われます。今日悪魔の宗教家たちは、釈迦やイエスをうまく取り込んで、ますます人々を支配する道具として利用しています。彼らが今日のこの実態を見たら、心から憤慨すると思いますよ。命を掛けて”宗教”に反旗を翻した彼らの意志を是非継ぎたいものです。

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