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仏教の限界と浄土思想


 今まで話してきた通り、仏教は自分で悟る宗教です。悟るためには出家して修行しなければなりません。つまり出家できない者は悟れないのです。

仏教の限界
 釈迦の教えは、出家して修行して真理を体得すること。ただ、誰にでも出家は可能でしょうか?
上杉鷹山の言葉「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。」は有名ですが、本当にやればできる?鷹山に「地球を持ち上げてみろ」と言ったら逆立ちをしたとか。(嘘です) これは経済界の連中(会社の経営者など)が社員を働かせるためによく使う言葉ですが、やればできるなんて嘘です。人によってできることとできないことがあるのは当然。(補足1)
ただし、誰でもその気があればできることが一つあります。それは出家です。出家だけは本人にその意志さえあれば可能です。だったら全人類が一斉に出家すればいいじゃないかということになりますが。しかしそれは不可能。なぜなら出家者は誰に養ってもらえばいいのでしょう?それは在家です。在家がいなければ(在家から施しを受けなければ)、出家者は生きてはいけません。生きていけないということは、修行も完成しない。悟りを得られないということになります。
在家はいずれ(来世かもしれない)出家を志すのです。そして解脱すればもはや輪廻から解放されてもう生まれてこなくて済む。ただ出家者が修行を完成させるためには在家者の布施が必要。ある特定の個人はいずれ輪廻を脱しますが、悟れない在家者は永遠に(出家者のために)いなくてはならないのです。つまり在家者が残っている限り、すべての人間が一斉に救われることはない。これが仏教の限界です。つまり仏教が他の宗教よりも劣っている点です。出家できない者も当然いるわけで、その者は出家者を養うために在家のまま存在している必要があります。誰もが一片に出家を志しても、それは不可能と言うわけです。なぜならそれでは出家者が生きていけない(修行が出来ない)からです。すると常に救われない在家者が存在することになります。
キリスト教やイスラム教では在家や出家の区別がない。皆神の前に平等であり、信仰心さえあれば全員が一片に救われる。それに対して仏教は全人類が救われることがない。
このような不完全な教えである仏教を捨てるべきか?
青山個人としては学ぶべきは学び、不備があればそのもの(仏教)にこだわる必要はないというもの。仏教に不備があるなら潔く捨てるべきである。(何事にも執着してはならないというのは、そもそも仏教の教えです)
では、仏教を捨てて一体何に学ぶのか?他の宗教です。
その前に仏教にもすべての人間が救われる教えがあります。もちろん釈迦の教えではありませんが。(彼の教えは自分自身が修行して解脱すること)
これを浄土の教え(あるいは他力の教え)と言います。

(補足1) もちろん何事も手間と時間を掛ければいつかは出来るかもしれない。ただし、ある人は1時間でできることを、ある人は1年掛かることもあるかもしれない。(例えば生まれたばかりの赤ん坊が一人で電車に乗れるまでには何年もかかる。大人にとってそんなことはいともたやすい) やればできるといわれてもこれじゃね?その前にそんなことをやる意味があるのか考えたい。

浄土の教え
 自力で解脱出来ない人間は救われないのか?
救われる道があります。それが他力の教え。では、救われるためにはどうしたらいいのでしょうか?
大乗経典に「無量寿経」というものがあります。10回念仏を唱えれば、極楽へ往生できると阿弥陀仏は宣言しているのです。
10回ではなく11回ではどうか?11回でも1億回でもかまいません。回数が多ければそれだけ上位の極楽へ行ける?いいえ、回数には関係ありません。(その後釈迦が「念仏は1回でも良い」と言ってます)
逆に9回じゃ駄目です。なぜなら、阿弥陀仏にしてみれば、本当に極楽へ行く気があるのか疑わしいからです。その気がないのに冗談で言っているのかもしれませんから。
ただし、誰もが10回の念仏で極楽へ行けるわけではありません。五逆罪(父母を殺した、僧侶を殺したなど)を犯した者と、正法を誹謗した者は駄目。はっきりそう書いてあります。(注1)
注1:「無量寿経(漢訳)」によれば、阿弥陀仏が仏陀になる前の菩薩時代に(その時の名を法蔵という)、48個の誓願を立てたそうです。そしてその中の第18番目で、「いずれの世界の衆生であろうと、心から信じてかつ疑わずに、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいという願いを10回でも起こしたなら、その者は必ずこの浄土に生まれる。もしそうでなければ、私は仏陀にはなりません」ということが書かれています。つまり、あくまで衆生が心から信じなければならない。ということは、誰でも簡単にできることではない。その気のない者(往生を望まない者)まで救うとは言っていない。極楽へ行くのは阿弥陀仏の計らいではなく、あくまで自らの意志によるのです。無量寿経のこの部分をよく読めば、これは決して他力(一方的に救う)の教えではないことが分かります。
 ご存知とは思いますが、阿弥陀仏は死んだら救う(極楽に生まれさせてあげる)と言っているのであり、この世で生きている間は何もしてくれません。だから、「南無阿弥陀仏」と唱えて、「家内安全」、「商売繁盛」、あるいは「合格祈願」をお願いしても無駄なのです。
そもそも何を目的に阿弥陀は極楽浄土を造ったのでしょうか?仏陀を目指す修行者にとって、この娑婆世界のような穢れた場所では、修行の妨げとなる害悪が山ほどあり、なかなか悟りを開くことが難しい。そこで阿弥陀はより早く悟りを目指す修行者たちのために、理想的な環境として極楽浄土(ここでは修行の妨げとなるものが一切ない)を建設したのです。つまり阿弥陀仏が浄土に迎えようとしているのは、六道世界で苦しみもがいている哀れな衆生ではなく、仏陀を目指す菩薩です。もし求道心をわずかしか持たず、従って阿弥陀の本願さえ完全に信じ切れていない者が念仏を唱えて往生しようとしたらどうなるか?それは阿弥陀仏の極楽世界には違いないが「辺地」というところに留まって、菩提心を得るまで長い間反省させられる。ということだそうです。

阿弥陀仏と薬師仏のモデル。
 ここで一息。阿弥陀仏はまったくの架空の人物です。ただもしかしたらモデルがいたかもしれない。釈迦の生まれたところ(即ちインド)から西、つまりペルシャかエジプトに実在した聖者かも?伝説によればもともと一国の王だったそうです。そういえば釈迦も王子です。どうやら貧乏人から仏陀にはなれないようです。この阿弥陀仏が極楽(浄土)世界を作りここに往生を願う(極楽へ行きたいと思う)者を救うとされています。(注2) もう一人薬師仏についても。日本のお寺にはこの薬師如来像を本尊にしているところが多いのです。それだけご利益があると信じられたからでしょう。阿弥陀仏と違って死後救うのではなく、今生きている現世で救済してくれる仏です。(注3) 阿弥陀仏と反対に東の国の仏だから、東南アジアの聖人かも知れません。ともに経典には釈迦よりも遥か過去の人のようですが、釈迦の時代は10年20年前でも恐ろしく過去とみなされるのも時代の精でしょうか。実は釈迦よりたかだか50年ほど前の人かもしれません。仏陀という者は実は普通の人間と変わらないのです。
注2:阿弥陀仏が一国の王の時代、当時「世自在王」という名の仏陀がいたそうです。その仏の説法を聞き感動した阿弥陀は、国を棄て王位を棄てて出家した後、その仏の弟子となって修行します。修行時代の名は法蔵(菩薩)と言います。そして永い永い修行の末悟りを開いて仏陀となりました。これって、仏に弟子入りした以外は何となく釈迦の経歴と似ていますね。仏陀となった法蔵は、名を改め「阿弥陀」と名乗ります。なお、別名として「無量光」、「無量寿」、「無礙光」、「超日月光」など沢山の名がつけられています。
注3:「南無阿弥陀仏」ではなく「南無薬師仏」と称えるとご利益がある??ただし、「商売繁盛」、「恋愛成就」、「出世祈願」などをお願いするのは駄目。あくまで仏教だから、悟りを求めるものであること。「薬師」の名前の通り、主に心と体の病を癒す。

 話を阿弥陀仏に戻しましょう。経典ではそう書かれています。ただし・・・
阿弥陀に会った者は(一人たりとも)いない。極楽へ行った者は(未だかつて一人も)いない。結局阿弥陀なんかいるかどうかなんて信じられない。(補足2)
阿弥陀仏は方便です。そういう名前の人間がいるわけではありません。これはみんな方便なのです。念仏の回数も方便。五逆罪や正法誹謗も敢て悪いことを戒めるための方便。(補足4) 結局は皆救われるのです。(補足5)
誰が救う?
誰かが。
いつ救う?
いつか。
そんな誰が救ってくれるのか?あるいはいつ救ってくれるのか?まったく分からないとしたら、本当に救われるか?
はい!必ず救われます!!本当に救われます。絶対に救われます。青山が保障します。
そんな救われる前に死んじゃったらどうしてくれるんだ!
もちろん、あなたがこの「救い」を信じられないなら、無理に信じろとは言いません。信じるか信じないかはあなたの自由です。

絶対他力とは
 救われない理由はありません。阿弥陀仏なんかいないかもしれないが、誰かが救ってくれるでしょう。神が救ってくれるのではありません。救うのはあくまで人間です。神はいないかもしれない。神など信じられないかもしれない。しかし、人間はこの通りたくさんいるではありませんか。その中の誰か一人が救ってくれればいいでしょう。さらに人間が救ってくれる根拠は、人間には誰にも良心があり、他人に対して救ってあげたいという気持ち、即ち慈悲の心があるのです。しかもすべての人間に。だからあなたは信じればいいのです。いつか必ず救われると。信じるだけであなたは救われます。なぜかと言うと 救ってくれると思ったとき既に救われているからです。
譬え話をしましょう。あなたは果てしない砂漠を歩く旅人だとします。あなたは喉が渇き水を求めてさまよっていました。
そのとき目の前に満々と水をたたえたオアシス(またはコンビニ)を見つけたら、あなたは水を飲む前に救われたと思うでしょう。
いやいや目の前のオアシスは蜃気楼かもしれない。実際水を飲むまで信じない。と言う方は救われていないのです。
人は信じたときに救われるのです。信じなければ実際に水を喉に入れても救われていないのです。
つまり本当の”救い”とは、”未来に”希望が与えられるということです。今この世で苦しみにあえいでいても、いつかこの状態から解放される。そう信じれば苦しみは去ります。即ちそう信じた今、この世で救われたのです。もちろん未来に救われる保証はありません。しかしあなたにその気があるなら、救わることに確信を持てるはずです。
一生を通じて不幸だった人間も、死ぬ直前に救われたかもしれない。死ぬ直前に救われればいいでしょう。誰であっても(死ぬまで)救われなかったとは言えませんよ。
あるいは生前救われなくても、死後の救いは無いとは言えない。それは誰も確かめられない。ただいつか(それは死後かもしれない)必ず救われると信じること。信じた時点で(未だこの世に生きていたとしても)救われるのです。それが本当の救いです。それは一方的な救いです。念仏を唱えたら救わる。唱えなければ救われない。と言うわけではありません。もしそうなら、念仏を唱えられない人(赤ん坊や犬や猫なら)は救われないのですか?浄土の教えを知らない(一生のうちに聞かされない)人は救われないのですか?
念仏を唱えても唱えてなくても救われる。悪人でも善人でも救われる。自力で悟る人も自力で悟れない人も救われる。(念仏を10回唱えるのも自力です。ついでに寺を参るのも、聴聞(仏教の話を聞く)するのも自力。)(補足6)
一方的に救われるので、こちらは何もしなくてもいい。あるいはしてもいい。念仏を唱えてもいいし、唱えなくてもいい。諸々の雑業を捨ててもいいし、捨てなくてもいい。修行してもいい。しなくてもいい。聖道門でも、浄土門でも、あるいは偶像崇拝でもよい。絶対に救われると信じてもいいし、信じなくてもいい。阿弥陀仏を称えてもいいし、けなしてもいい。阿弥陀仏の本願を疑ってもいい。疑わなくてもいい。御恩報謝(救いに感謝)してもいい。しなくてもいい。念仏の教えを知らなくてもいい。知っててもいい。すべての者が救われると信じてもいい。信じなくてもいい。阿弥陀仏など存在しないと主張してもいい。存在すると主張してもいい。これが絶対他力です。(補足7)
ただし、今現在、信じている、あるいは信じていないかによって自分の心の状態が違う。もちろん人間ですから信じられないこともあります。無理に信じなくてもいいのです。信じなくても救われるからです。問題は今自分自身が必ず救われると確信を持つか持たないかによって、(それは救われるか救われないかに関係なく)今の自分の心持ち、生き方が変わってくるのです。つまり絶対に救われると信じれば何も恐れることはない。何も苦しむことはない。絶対的な安堵感を得たうえで、この世界を生きていくことができるのです。
この教えはキリスト教やイスラム教よりもすごい。なぜなら救いを信じることが出来ない者まで救うから。(補足8)

 仏教はあくまで自力の教えです。自らの意志で出家して、修行を重ね、宇宙の真理を悟り、仏陀になる。ただし、浄土思想では自ら悟れない者も救うとされている。
よく考えてみて下さい。人間は、自分で自分を救うことはできません。では、どうすればいいのか?誰かに救ってもらうのです。これを他力と言います。さらに本人が意識するしないに限らず、一方的に救われる。誰もが必ず救われる。これを絶対他力と言います。
絶対他力とは、善人、悪人、あるいは救いを信じることができない者まで救う。しかしもし現在「自分は絶対救われる」、「最後の最後には必ず救ってもらえる」と信じれば、今の時点で心が安らぎますよ。絶対的な安心感が得られます。
絶対他力の教えでは、阿弥陀仏がいるいないに関わらず、極楽浄土があるないに関係なく、すべての人間が救われます。だから今の自分の状況がどうであろうと、あるいは将来自分の身に何が起ころうとも、すべてを任せればいい。一切を委ねればよいのです。自分は何一つしなくてもよい。する必要がない。すべて任せているので、自分が幸福になるために行うべきことは何もない。現在自分がどれだけ問題を抱えていようが苦しまなくてもよい。この先何が起ころうが恐れる必要はない。最終的には救われる。そう固く信じれば何一つ心配はいらない。悩む必要などないのです。(補足11)
では、「何もしなくてもいいなら、今お前は何のために働いているんだ。生活のためだろ?それだって自分が幸福になるためじゃないのか?」。そう問われるかもしれませんが、その答えは、「それは自分の幸福のために行っているのではありません」ということ。その意味は後程解説します。

(補足2) 「観無量寿経」では、釈迦とベイデーヒー(古代インドの王国マガダの王妃。当時実際に起こった事件「王舎城の悲劇」の関係者)が阿弥陀の姿と浄土世界を見ています。(補足3) どうして見えたのでしょう?周りにいる人には見えないのに、「阿弥陀仏の姿が本当に見える」、あるいは誰の耳にも聞こえていないのに、「阿弥陀様の声がはっきり聞こえる」、と言われる方がいれば、病院に連れて行った方がいいかもしれない。もちろん阿弥陀仏の存在を信じるのはいい。しかし他人の目には見えないものを、人に信じさせることはできません。いくら経典に記されていたとしても、確かな証拠(科学的な観測結果)がない限り、阿弥陀仏の話はただのフィクションだということを、誰にも否定はできない。なぜなら頭の中のイメージとして、阿弥陀仏の物語をいくらでも作ることができるからです。あなたはただ周りに騙されているだけかもしれない。あるいはあなたが勝手に阿弥陀仏は存在すると思い込んでいるのかもしれない。もし阿弥陀仏が存在しないのであれば、浄土の教えそのものが崩れ去ります。ただあくまであなた一人が信じるのは自由ですが。

(補足3) と言っても、2500年前の話ですから、今はもう亡くなっている?ことでしょう。2500歳も生きる人間などいません。釈迦も80歳で亡くなっていますから。

(補足4) 五逆罪や正法誹謗の大悪人を救うのは極めて難しい。凡夫には無理でしょう。しかし格段に能力が高い如来にはできるかもしれない。阿弥陀仏なら可能でしょう。でも敢て救わない。救う気がない。そんなことを言えば、師匠である世自在王仏に怒られるでしょう。「救えるなら、意地悪しないで、救ってやればいいじゃないか!」ってね。もしかしたら阿弥陀仏でも救えないのかも?だから、”除く”としたのか?いいえ、救えます。如来なら、救える衆生と救えない衆生があるわけはないのです。だからこういうことです。「五逆罪と正法誹謗は除く」の真意は、「五逆罪や正法誹謗も最終的には救います。ただし、その前に徹底的に懲らしめて、十分に反省させます。」そう言えば、世自在王仏も「よろしい!」と褒めてくれるでしょう。

(補足5) ただし誤解してはいけないこと。何をしても救われるからと言って、わざと悪事を犯すことはNGです。自分の罪は自分が償うしかない。これが宇宙の掟。因果の法則です。この法則を曲げることは阿弥陀仏でも不可能です。どんなに些細な行為でもその報いは相当のもの。たとえ蟻一匹をうっかり足で踏みつけて殺してしまったら、その罪は計り知れない。それを償うためにどれだけの歳月が必要か?ほとんど無限に近い期間償わなければならないでしょう。
まして仏陀を殺したりすれば100億劫、純粋で穢れなき天使(のような優しい人)を殺した場合は、1000億劫の永い間苦しみを受けなければなりません。(「劫」とはインドの時間の単位で約43億年。ほぼ地球の年齢と同じです。天使一人は仏陀100人分に相当します。なぜなら仏陀は人間ですが、天使は神の一部です。)
ただし、阿弥陀仏の本願を(自分は必ず救われると)信じれば、100億劫も(本人にとっては)一瞬かもしれません。

 人間は、こんな自分でも絶対に救われる。救いを疑ってしまう自分であっても本当に救われる。悪いことを止めようと思って努力してもなかなかそれが叶わない無能な自分ですら必ず救ってもらえる。そう心から信じる人間は、完璧にはなれなくても、出来る限り悪いことはしないように自ら努めるものです。

(補足6) 阿弥陀仏の救いとは穢れた世界で苦しむ衆生を極楽世界に招くこと。極楽浄土では一切の苦しみはない。そこに招かれた衆生たちは清い世界で修行を完成させて自ら仏陀となる。「俺は別に阿弥陀仏が救ってくれなくても自らの力で成仏してみせる」。そう宣言した者は、阿弥陀は敢て救わない。「かの者は私がわざわざ救わなくても大丈夫だ」。逆に「俺はもう駄目だ!」と絶望しきっている者から先に救う。ただし、人間は例外なく誰もが今救いを求めているのです。

 「無量寿経」によれば、阿弥陀仏が極楽浄土へ招こうとしている者は、修行が満足にできない、本願を信じられない、無知な愚か者、ではありません。単に苦しい身から自分を救ってほしいともがいている凡夫ではない。そうではなくて、心の底から何が何でも仏陀になりたいと願う強い菩提心の持ち主です。そのために念仏を唱えるのです。そこに阿弥陀仏の本願を疑う余地は微塵もない。では、仏陀になって何をしたいのか?自分一人の幸福ではない。もちろんこの娑婆世界にいる一切の衆生を救済することです。そのために発心を起こしたのです。浄土に赴いても、一日も早く成仏するために、命懸けで修行に邁進する覚悟が必要です。そういう強い願を備えた者でなければ阿弥陀は救わない。
即ち阿弥陀の教えはあくまで自力の教えなのです。浄土の教えによる「環相回向」とは、極楽世界で仏になった後、衆生救済のためにこの世界に再び生まれる仏の働きを言うのです。自らの願により浄土世界に往生を果たした菩薩たちは、速やかに悟りを得仏陀となった後ただちに元の世界に転生し、救いがたき我々衆生の救済に取り組むのです。(それにしては、この世界に現れる仏陀が少なすぎる?)
では、もともと修行もできず、本願も信じられない愚かな凡夫は救われないのか?否、それをも救うのが「絶対他力」の教えです。

疑う余地のない絶対の”信”とは
 心の底から信じようとしてもどうしても信じることができない。いくら努力を重ねても心の隅に疑いの余地を残してしまう。それが人間の本質というものです。「信じるものになりなさい」といくらイエスに諭されても疑ってしまう弟子のトマス。あるいは、阿弥陀仏の本願を心から喜べない親鸞(「歎異抄」による)。この煩悩に塗れた身を携えて生きているこの世(現世)においては、どうしても疑ってしまう、全てが信じられないのは、人間である以上(未だ死を知らない故に)致仕方ないことなのかもしれません。このように心から信じられない、疑念を捨てられない哀れな者さえも救い取るのが「絶対他力」です。
ただ、先に述べたように、衆生の救済のため自ら仏陀になることを目指し、阿弥陀仏の働きに応じて極楽への往生を願う者は、もはや疑いの余地なくその本願を信じているに違いない。これこそ他に選択の余地がない「絶対の信」と言えるのです。
 微塵も疑う余地なく100パーセント完全に信じることほど難しいことはありません。人間はどうしても疑ってしまうのです。特に阿弥陀仏は目には見えませんから。観測不可能なものは存在しないに等しい。これが科学の原則です。どうにか確かめる術でもあれば別ですが。それでも信じろ!と言われても無理なものは無理なんです。阿弥陀仏の話はただの物語かもしれない。もともと存在しない。でもそのまま経典に従えば、(本願を)心から信じることができない者は救われるかどうか分からない。ということです。全面的に信じなくても、多少なりとも信じていれば極楽に往生できる。のであれば、(極楽世界に生まれたいと思って)念仏を一言唱えれば、それで往生できることになります。なぜなら意識して唱える分において、多少は信じているからです。まったく信じていなければ、一言も唱えることはできないでしょう。
では、経典に説かれている通りに疑心を挟むことなく(阿弥陀仏の本願を)全面的に信じることは不可能でしょうか?ここに二つのことが考えられます。一つは上で述べた通りの(絶対)自力の信。即ち自らの菩提心(至心廻向)により往生を目指す。目的は自ら仏陀になるため。その動機は自分が救われたいからではありません。そんな弱い心ではなく、あくまで(自分以外の)衆生救済を目的としたものです。だから、むしろ阿弥陀仏に対して、「アミターバよ。私を浄土に往生させよ」と半ば命令に近い要請を行う。それだけ強い意志を持っているからできるのです。だからその姿勢は「不退転」(退くことがない)なのです。その点から「無量寿経」を改めて読んでみると、そこにあるのは他力ではなく、あくまで他の仏教と同様自力の教えだということが分かります。
そしてもう一つは(絶対)他力の信。誰もが救われる。自分のような煩悩に塗れた悪人、心から信じることができない愚か者でも、阿弥陀仏は救ってくださる。それを知ったその時、心から信じることができるのです。そして救われた喜びに溢れる。これぞ猜疑心が綺麗に消えた瞬間です。ただしこの感動はいつまでも永く続くとは限らない。再び疑いを持つかもしれない。「自力の信」のように不退転とはならないでしょう。この娑婆世界で生きている間はどうにもならない。さらに疑ってしまう。しかし、これほどまでに何度も何度も疑ってしまうこんな自分であっても、阿弥陀仏は決して見捨てない。それを悟った瞬間再び絶対の信を得るのです。それでもまた疑念を抱く。人間だから仕方がない。では、どうすればよいか?後はすべて阿弥陀仏の計らいに任せれば良いのです。何もかも。もう自分が極楽へ行こうが、地獄に落ちようがお任せするしかない。自分は何もできませんから。
さらにその絶対の信を進めます。自分は疑う余地なく、間違いなく絶対に必ず救われるのだから、もはや信じるとか信じないとか、阿弥陀仏が存在するとかしないとか、救われるか救われないかなど問題ではない。救われたいという気持ちさえない。救われたいという気持ちがあるうちは、救われていないのです。
以上、疑念なく心の底から信じるには二つの方法しかない。要するに、自力も他力も中途半端だから、全面的に信じることができない。ということです。

(補足7) 「阿弥陀仏の大馬鹿野郎!嘘つき!死んじまえ!」と悪口を言ったら、救われないのでしょうか?地獄へ落ちるのでしょうか?いいえ、関係ありません。すべて救われます。それが絶対他力です。罵りたければ罵ればいい。侮辱したいのならすればいい。なぜなら阿弥陀仏も地獄も実在のものではないからです。

(補足8) 「絶対他力」の教えでは、他力ばかりに頼ってどうしても自力を持てない者、どうしても自力を捨てられない者、信じ込むことを止められない者、何でも疑ってしまいどうしても信じることができない者も、すべて救う。善人悪人に関わりなくすべての者を(無条件に)救済する。キリスト教の「万人救済説」と同じです。ただ、この誰もが救われるという考え方を否定する宗教(宗教団体)もあります。なぜか?それは宗教(宗派、教会など)がいらなくなるからです。つまり僧侶も牧師も職を失う。そのために「信じない者は地獄へ堕ちる」と言って脅すところさえあります。彼ら(宗教団体)にしてみれば、お金になる信者たちを永遠に囲っておきたいのです。
宗教団体は、誰もが救われる。信じても信じなくても救われる。なんて、口が裂けても言わない?でしょう。もし誰でも救われるなら、信心なんてする必要はないではないか。お寺をお参りする必要もない。教会に通うこともないではないか?そう思って人々が宗教に入らない。あるいは止めてしまうのを、宗教側は恐れているのです。しかしこれは誤りです。お寺にお参りしないと救われないから寺に行く。教会に行って牧師の話を聞かないと救われないから行く。のではありません。念仏を唱えなくても、イエスの贖罪、イエスの復活を信じなくても、誰もが皆救われるのです。お寺や教会は救われるから行くのではない。お寺や教会に行くのが好きだから、楽しいから、あるいは心が落ち着くから行くのです。好きじゃなければ行きません。同様に念仏を唱えたいから唱えているのです。イエスの教えを信じたいから信じるのです。あくまで好きなんです。楽しいんです。だから行きたい。つまり寺も教会も必要なんです。(補足9)

(補足9) 教会へ行けば牧師さんから、「誰もがみんな救われるのだよ。」と教えてもらえます。「じゃあ僕も救われるんだね?」、「そうだよ。」 それを聞けば安心できるでしょう。それに対して教会に来ない人は、「俺はどうせ地獄行だ!」と(この世で)絶望することになるのです。もちろん教会に来ない人も(最終的には)救われます。ても、(今の時点では)そのことを知らないまま。どちらが幸せだと思いますか?絶望していた人も何かのきっかけで「あなたも救われます」と教えられれば、「自分のような者でも救われるのか!」と神に感謝するに違いない。
「では牧師様、教会へ行かなくても神は救ってくださるのですね?」 そう尋ねられた牧師はどう答えるか?「否、やっぱり教会へ来て献金しない者は地獄に堕ちる。」そう答えたなら、その牧師は多分インチキでしょう。(補足10) では、自分も救われると知ったら二度と教会へ行く必要はない?いいえ、教会へ行けば、正しい牧師から、なぜ救われるのか?どうやって救われるのか?救われた後はどうなるのか?を教えてもらうことになるのです。そうすれば今以上に心が安らかになるでしょう。
同じように、仏法を聞けば心が満たされます。人々はお寺に行ってお坊さんから話を聞くことにより心を安らかにさせるのです。他力の教えとは、救われるためには何をすれば良いかを示したものではなく、「あなたも救われますよ」と教えてくれるもの、ということです。だから「無量寿経」を説いてくれた釈迦に対して、「お釈迦さま。ありがとう。」となるのです。仏法に興味がない人、聴聞しても嬉しくない人はお寺に行かなくてもいいのです。もちろんお寺に行っても行かなくても救われます。だったら、どうせ救われるのなら、仏法など聞いてもしょうがないじゃないか?お寺に行くだけ無駄。そう思う人は行かなくても結構。ただあなたは、仏法を聞くことを救われるための”行”だと勘違いしていませんか?救われるために何か(聴聞や修行)をするのは自力の仏教です。何もしなくても救われるのです。なぜなら、これは他力の教えだから。

(補足10) 宗教団体の煽て文句、脅し文句。「教会に多額の献金をした者だけが天国に行ける」。「脱会あるいは棄教したら地獄に落ちる」。これらは明らかに嘘です。誰も(たとえ釈迦やキリストでも、生きている時点では)死んだ経験がないのに、死んだ後のことがどうして分かるんだ?死んだ先に何があるのか?それは誰にも分かりません。しかし信じることはできる。もしかしたら地獄が待っているのかもしれない。そう信じるのも自由です。でも、どうせ信じるなら、誰もが救われると思いたいですね。

(補足11) 将来自分は必ず救われると信じているか?信じていないか?その人の外見では判りません。

 それでもまだ、誰もが救われるとは信じられませんか?生まれてから今日まで、自分は数え切れない程の罪を犯してきた。こんな罪深い自分が救われる。天国に行ける。そんなはずはない。自分は間違いなく地獄に行くであろう。そうあなたは絶望しているなら、その罪に苦しめられているのなら、あなたは疑いなく救われるでしょう。もちろん、(今生きている)この世で犯した罪は、この世でその報いを受けなければならないでしょう。人間は誰一人として罪人でない者はいない。皆悪人なのです。(補足12) ここまでは善人に入るけど、それ以下は悪人。ここまでは天国行き、ここから先は地獄行き、そんな線引き、境界なんてあろうはずがありません。しかし、この世を去るとき、そんな罪深い自分を許してくれるお方(つまり神)が現れる。自分は救われるかもしれない。否、救われないかもしれない。救われるか救われないか死んでみなければ分からない。確かに分かりません。死んでいない現在は確かめようがない。しかし分からなくても信じることはできる。逆に分からないからこそ確信を持つことができるのです。「自分は絶対に救われる」と。

(補足12) 人間皆生きている間に必ず殺生他の悪を為す。しかし自らの意志で生まれてきたのではありません。従ってその罪は最終的に許されるのです。

自力と他力
 先に話した通り、「絶対他力」は、何もしなくても誰もが一方的に救われる教えです。それに対して、念仏をしなければ救われないと言うのはある意味「自力」です。阿弥陀仏によって救いの道が作られた。けれども救われたいのなら、自ら一歩踏み出してその道に入らなければなりません。その一歩踏み出すのが自力です。あるいは阿弥陀仏がこの苦しみから助かる”薬”を作ってくれた。さらにあなたの口元まで運んでくれた。のですが、あなた自身がその薬を飲まなければ救われません。工程の大部分(薬を作って口元まで運ぶ)は他力ですが、最後の一工程(一口飲む)が自力に当たります。つまり「他力オンリー」と「他力+自力」の違いです。無論どちらが正解かは分かりません。確かめられない以上どちらも正解なのかもしれません。後者における最後の一工程が意外と難しい。口を開ける。薬を飲み込む。それがどれほど大変なことか?否、簡単です。念仏を一回唱えれば薬は飲み込めます。だったら簡単ですが、もしかしたら走り幅跳びで太平洋を跳び越えなければならないのかもしれません。それなら簡単にはいかないでしょう。いずれにしても、誰もが助かるわけではないのです。念仏を一回唱えるにしても、仏教を一度も聞いたことがないキリスト教徒やイスラム教徒は救われないのです。(補足13) それに対して、絶対他力では、例えるなら阿弥陀仏が薬を作り口元まで運び、さらに(強引に)あなたの口をこじ開けて、薬を咽の奥まで押し込んでくれるようなもの。気がつかない内に薬を摂取している。つまり全ての工程を阿弥陀仏がしてくれる。あなたは何もしなくてもいい。
しかし「他力」と言っても、念仏を唱えるのも自分が唱えているのは間違いないのだから、それも「自力」です。何もかも阿弥陀仏にお願いする。お任せする。としてもお願いしているのもお任せしているのも結局は自分なのだから、それも自力と言えば自力なんです。反対に、「自力の念仏」即ち助かりたいがために自らの意志で念仏を唱えているつもりでも、周りからの作用(影響)でそうさせられているのかもしれません。結局これは自力だ。いや他力だと言っても、分けることなどできないのです。

(補足13) 念仏を知らないキリスト教徒やイスラム教徒は救われない?いいえ、救いの道は複数あります。全能の神の方で一方的に救ってくれるという教えが多いですが、各宗教に救いの方法が示されているのです。その中であなたが心から信じられるものを選択すればいい。それだけです。

 阿弥陀仏はあくまで架空の存在です。ただし、仏陀という者は神ではなくあくまで人間です。もしあなたが、自分の周りの苦しみのどん底で喘いでいる衆生たちを見て救いたいと思ったら、あなたこそが阿弥陀かもしれません。あなたにも慈悲の心があるなら、「生きとし生けるすべての者を救いたい」と言う阿弥陀の気持ちが分かると思います。阿弥陀も特別な存在ではなく、慈悲を備えた普通の人間なのです。もしも阿弥陀が人間ではなく、自然法則を超越した神のような存在ならば、阿弥陀の話は夢物語でしょう。

 ここで述べた「浄土の教え」は、仏教の本流即ち自力の教えにとっては亜流です。しかし世界中を見渡せば、代表的な一神教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教は基本的に他力の教え(神が一方的に救う。我々人間は無力である)です。即ち人類の半数以上が他力の宗教を信仰しているのです。

 さて、上で述べた通り、仏教に欠陥があれば、それを捨てる選択もありだと思います。少なくても仏教一筋に専念するのではなく、他の宗教を見回してみるのも無駄じゃないと思います。

仏教の問題点
 読者の皆さんは、青山がここまで仏教について話しているのに、なぜ釈迦の教えに従って「出家」しないのか、青山だって所詮「在家」ではないか、とおっしゃられるかもしれませんが、それに対する青山の回答は、青山は「在家」ではありません。そもそも青山は”仏教徒”ではありません。従って出家もしませんし、在家でもありません。最初に述べた通り青山はいかなる宗教をも信仰しておりません。完全無欠な無宗教です。ここでは参考として、皆さんに仏教をご紹介しているだけで、決して皆さんに仏教徒になることを勧めているわけではありません。ただ仏教の教えを知ることは無駄ではないと言いたいのです。
仏教だけにこだわる必要はない。他の宗教、例えばキリスト教やイスラム教について学ぶことも意味がある。と考えます。ただし、特定の宗教に属するか否かは個人の問題であり、青山はもちろん何も言いません。
ただ宗教にはいろいろと問題があるので、特に科学の正当な研究を妨げる行為は断じて許さない。何度も言う通り科学と宗教は完全に別物です。この「科学概論」は科学とは何かについて述べていますから、科学を理解するために、それとは相反する宗教の話をしているわけです。宗教とは何ぞやを知らないと、科学に対して誤解を抱かれる危険性があるとみたからです。青山は科学を勧めても宗教は絶対に勧めません。
さてそれはともかく、仏教最大の問題とは何でしょうか?それはあの”オウム”にも見られた「出家制度」です。本来の出家とはあのような社会からの逃避を意味するものではありません。世俗との関わり、特に家族との関係を切ることです。家族ごと出家しては意味がありません。本来は一人になることです。一切の人間関係を断ち切る。従って師や弟子の関係も切る。人間関係に執着しない。これが出家です。しかし釈迦の時代の出家は、教団を作り、出家者がその中で集団生活を営む。はっきり言ってオウムと同じです。出家とは仏教最大の功績ですが、同時に最大の悪しき制度でもあるのです。(あのオウムを生んだ悪しき根源は”釈迦”にある)
釈迦の功績は偉大です。世界の真理を示した点でも尊敬に値するでしょう。ただし弊害もあります。釈迦最大の罪は、出家集団、すなわち教団を作ったことにあります。釈迦はある意味偉大ですが、もちろん褒めるところもあれば、厳しい批判を加えるところもある。釈迦を絶対視することが、あのようなオウム教団を生むのです。

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