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菩薩と修行


菩薩の修行
 仏教の基礎を一通り眺めてから、大乗仏教の教えをお話します。ただし大乗仏教は釈迦直接の教えではありません。(補足1)
大乗仏教には様々な菩薩(仏陀を目指して修行している者)が登場します。有名どころで、観音や地蔵、文殊、普賢。これらが実在の人間かどうかは判りません。大部分は架空でしょうけど、モデルはいたかもしれません。
大乗仏教の「大乗」とは「大きな乗り物」。つまり「小乗」(小さな乗り物)に対する言葉ですが、意味は自分だけではなく、他者をも悟りに至らせるということ。(補足2) つまり利他(他人を利すること)が重要だということ。これが菩薩の特徴です。「十界」の中でこれまでに登場した「声聞」や「縁覚」とは違って、この「菩薩」において「自分さえ幸福になればいい」という境地を超え、初めて他者を利する、即ち「慈悲」の精神が生まれるのです。そして、その「利他行為」の最も基本なものが以下に示す「布施」です。
さて、菩薩の修行の内容は、パーラミターと呼ばれていて一般的には6種類あるとされています。この六つを六度とも言います。
この六つとは、
(1)布施 他者に施しをすること
(2)持戒 戒律を守ること
(3)忍辱 耐え忍ぶこと
(4)精進 努力すること
(5)禅定 精神を安定させること。具体的には座禅
(6)智慧 世界を正しく理解すること
です。何か当り前の道徳のようですが、誤解もあるので解説します。

(1)布施
 自分が所有するお金や財産、資産の権利を他人に譲渡することが布施ではありませんよ。ましてや、相手に何かを与えたから、その見返りに何かを得る。そんなものではありません。
布施とは経済上の契約、売買、あるいは贈与ではありません。そもそも所有という考え方がおかしいのです。(「国民の定義」の「所有権」のところを参考に)
布施とは相手に物ではない何かを与えること。
教えを諭すことも布施です。それに付随して何かを相手に渡すことはあります。例えば「仏教の解説書」とか。その時にその(解説書の)所有権が移動することが布施ではありません。物ではない何かとは、自分の命であることもありえます。
あえて言えば、相手の(幸せの)ために何かをしてあげることはすべて布施です。ここで重要なことは、相手を選択してはいけないということです。この人には布施して、あの人には布施しない。というのでは駄目。人を分け隔てしないこと。ただし布施の中身は人によって違います。飢えた子供には食べ物を施し、悲しみにくれた人には心の支えを施します。ただし、アルコール依存症の人間に酒を施してはいけません。
布施というのは、パーラミターの最初に出てくる基本ですが、考えようによっては最も多く実践しなければならないことです。

(2)持戒
 持戒とは、決まりを守りましょうと言う意味ですが、守るように(出来る限り)努力しましょうという意味もあります。この戒律は社会における刑法や民法などの法律とは違います。それらは守れるように努力すればいいというものではありません。守れなかった時点で逮捕されます。
仏教では一般的に五戒と言って、以下の通り五つの戒律があります。(キリスト教では有名な「十戒」)
@不殺生戒 生きとし生けるものを殺してはいけない
 これは大変誤解されています。「無益な殺生をしてはならない」という意味ではありませんよ。無益って何?こんなことを言ったら皆勝手に解釈しますよ。
まして人間以外なら殺してもいい。そんな馬鹿な話はありません。生きとし生けるものとは動物も植物も細菌も含まれるのです。これを勝手に解釈して、食べるために必要な植物なら刈り取ってもいい、あるいは魚は捕まえて生作りにしてもいい、などという例外事項が作られる。いずれ、白人は殺してはいけないが黒人は殺してもいい。と必ずそうなると思います。だから絶対に例外を認めてはいけないのです。
生き物を殺さなければ人間は生きていけません。(自分が食べるために)必要最低限の殺生は許される?それも結局は例外事項です。勝手な解釈です。「人間は食べなければ生きていけない」それを理由に殺生を認める?いいえ、生きていけなくてもいいのです。生きていかなければならない理由はありません。それも勝手な言い訳です。なぜなら、人間はいくら食べたとしても最後には死んでしまうから。
しかし自分が殺さなければ、その生き物は必ず殺生(他を殺す)をする。殺生をすることは、別の殺生を防ぐことでもあるのです。また自分が何も食べなければ自分は死ぬでしょう。それは自分に対する殺生でもあるのです。(もちろん例外を認めないからこれも戒律違反です)
戒律は法律と違うから、出来る限り殺生をしないように努力すればいいというのも誤りです。そもそも守れない戒律なら不要です。(補足3)
この不殺生戒は五戒の中で最も守り難いものです。殺生の問題は奥が深い。ある意味仏教における最大の課題かもしれません。この不殺生の問題についてはまた別途。
A不偸盗戒 他人のものを取ってはならない
 これも誤解です。他人のものって何?物に所有権などありません。これは自分が物に対して所有権を主張する。そんな愚かなことはしてはならないという意味です。
B不邪婬戒 性行為をしない、すなわち子供を作らない
 夫婦以外の男女が性行為をしてはならないという不倫を禁じたものではありませんよ。正式な夫婦なら性行為をしてもいいのか?これじゃまるで儒教の道徳です。
仏教はそんなものではありません。誰だろうと性行為をしないということです。だったら子供ができないじゃないか。できなくてもいいんです。だったら子孫が絶える。人類は滅びるではないか。滅んでもいいのです。人類が滅んではいけない理由なんかありません。
これが子供を産んではいけないとなると女性だけに適用される戒律になり、差別です。だから(男女とも)性行為をしてはならないとしたのです。
なぜ子供を作ってはいけないのか?生まれた子供は(生きている内に)必ず(食べるために)殺生をします。そして子供もいつか死にます。それは死(すなわち殺生)の原因を(性行為によって)作ることになるのです。
つまり、不邪婬は不殺生に並び、最も困難な課題を突きつけているのです。
C不妄語戒 言葉は正しく使わなければならない
 嘘をついてはいけないという単純な意味ではありません。言葉は事実に忠実でなければなりません。嘘ではないにしても、お世辞や相手のご機嫌をとる上で言葉を濁すのも駄目。そんなことをして何の意味があるかということです。素直に事実を正直に話せばいいだけです。人間それが難しい。
D不飲酒戒 酒を飲んではならない
 単純ですが、酒だけではありません。あらゆる嗜好物は駄目なのです。タバコも当然ですが、刺激がある食べ物。辛いもの、甘いもの、みな駄目。それらは精神をごまかす、あるいは狂わすことになります。それでは解脱は無理です。ついでに言えばギャンブル等の遊びも駄目です。この戒律はイスラム教にも(酒と賭け事は厳禁)あります。
さて、以上5つの戒律で本当に守れるのは、最後の「不飲酒戒」だけかもしれない。それでも酒好きには守れないでしょう。特に大きな問題を孕む不殺生戒と不邪婬戒については、また後ほど取り上げます。

(3)忍辱
 人生には苦しみや悲しみは多々ある。苦しみや悲しみは毎日のように訪れるでしょう。その中でも、耐え難い、生涯に一度あるかないかのとてつもなく大きな苦しみ、悲しみに出会うかもしれません。あるいは他人には決して味わえないほどの極限的な苦しみ、悲しみに、自分一人が出会うかもしれない。それでも仏道を目指す者は決して逃げない。どんな事態に陥っても、どんな境遇が待っていても、どんな不幸に出会っても、ただひたすら耐える。これが忍辱です。

(4)精進
 仏道を目指す者はただひたすら努力に邁進すること。死ぬまでそれを続けること。どんな困難が人生に立ちふさがっていようとも、決して手を抜かず、一時も休みを入れず、あきらめず、ひたすらそれに取り組むこと。

(5)禅定
 心(および身体)を平静に保たなければ、正しく世界を見渡すことが出来ません。世間体や人間関係にとらわれない。そのために出家したのですから。
出家した後も、絶えず精神を乱さないように心と体を整える。精神が何かにとらわれている、あるいは誤った考えにとらわれていると、正しい知恵は身につきません。それが誤った解釈に結びつくのです。まずは世俗の考えを捨て去ることが肝心です。座禅や禅問答はそのためにあります。

(6)智慧
 世界の本質を見極めることですが、智慧については奥が深いのです。次のコラムでお話します。

 菩薩を初めとする、声聞、縁覚などの修行者は、原則みな出家者です。出家者にとっては日常のすべてが修行なのです。座禅(精神統一)をしたり、深く思索に耽ったり、仏典を読んだり、仲間と問答を交わしたり、一人勉学に励んだり、他掃除、洗濯などの作業に務めたり、それだけではありません。食事をするとき、お風呂に入るとき、便所を使うとき、道を歩くとき、在家と接するとき、あるいは自由時間に至るまで、すべてに作法があり、それに従う。朝起きてから、寝床に入るまで、否、寝ているときでさえ修行です。(補足4)
それに対して在家の者は、仕事をするときとプライベートを明確に分けています。なぜ仕事とそれ以外が分けられるのか?普通は分けられないと思います。なぜならみな自分自身の人生だからです。人生の一コマである仕事も遊びも自己が主体的に行うことですから、そこには一貫性があり、分けられるはずはありません。
在家者にとって仕事をするのは生きる(生命を維持するためにやむなくすること)ためなのです。ただし、そこになぜ生きるのか?の答えがない。それに対して出家者は、なぜ修行するのか?明確な答えがあります。すなわち仏陀になるためです。つまり生きる目的が明確か明確ではないか。これが出家者と在家者の大きな違いです。出家者と在家者、一見すると分かりませんが、このことは大変な違いだと思いませんか?

(補足1)大乗仏教が釈迦直接の教えでないことは学問上の常識です。後々の仏教徒が釈迦の教えを発展させて、あるいは独自に解釈して創作したものです。
人によっては、「大乗仏教だって釈迦の教えだ」と頑なに反論する方もいますが、釈迦の教えではない根拠はいくらでもあります。経典を読めばわかりますが、話が荒唐無稽すぎることです。大地が振動したとか、体か空中に浮き上がったり、顔から光を発したり、どういう科学的原理によってそういうことが可能になるのか説明してもらいたいですね。あるいは釈迦が何歳のときに、どこで起きたことなのか?時間と場所が特定できなければ事実とは言えません。少なくても現代において同じ事(大地振動、空中浮遊等)を再現して欲しいものです。信用できるものは事実起こったことの記録です。
ただし、(大乗仏教の)教えが釈迦とまったく無関係とも言えないでしょう。さらに釈迦の教えではないからといって価値がないとも言えません。青山個人としては、釈迦オリジナルの教えよりも(大乗仏教の方が)価値が高いと思っています。そこには釈迦以上の天才がいたのかもしれません。

(補足2) 「小乗仏教」とは、大乗仏教徒が自分たち以外を蔑んでこう呼んでいるのですが、相手を罵るなんてとても「慈愛精神」とは言えませんね。誤解しないでほしいことは、人を利する前に自分がまず真理を悟り幸福の状態を得ていることです。単に非科学的なカルト宗教に洗脳されて自分自身を「幸福」だと思い込まされている状態では返って不幸であり、不幸な人間が人を幸福にできるはずがありません。要は人を幸せにしたいなら、科学的な(現実を直視する)態度が必要であると考えます。

(補足3) 世間には、人間が生きるために魚、肉を食べることは許されている。そもそも魚や家畜は人間に食べられるために存在している。そんなことを平気でいう愚か者がいますが、神がそんなことをいつ許したのですか?それは神ではなく、あなたという”悪魔”ですよ。もしあなたの愛する家族が無残に殺されたとして、犯人がこう言ったとしたらどう思いますか?「あいつら(あなたの家族)は俺に殺されるためにいた」。正常な人間なら犯人を100万回殺しても飽き足らないでしょう。それと同じことをあなたは言っているのですよ。気づきませんか?あなたの発言は、天使さえ殺害しかねないものです。この世で最も極悪非道なものだと思いますよ。

(補足4) 出家者が修行の一環として日常の些事を熟す際の重要な点は、その一つの事に集中することです。たとえば食事中に会話をすることは厳禁。食事の時はそれ以外の事はせず、食事に専念すること。これが修行です。
在家者は食事をしながら会話を交わすことが多いですが、それは食事に専念していない証拠です。つまり食事を修行だとは考えていないことを意味します。きっと忙しいからでしょう。食べながら人からの情報を集めているのかもしれません。だから得る情報も無意味です。あるいはその情報が持つ深い意味まで考えない。大体食事も会話も口を使います。青山が不思議なのは、どうやって口を動かせば、食べると同時に話ができるのか?普通に考えれば舌を噛んでしまうのでは?出家者としてはとても在家者とは付き合えませんね。
また、在家の社会においてよくあるように、主君が食べた食器を家来が洗う。師の部屋を弟子が掃除をする。などのことを出家者たちはしてはいけないのです。人の食器を洗ったり、部屋を掃除したりすることは、相手から修行する機会を奪うことになます。もちろん食器を洗うことも掃除をすることも修行です。出家と在家は天と地ほども違いますね。
  
 自分だけの満足を目指す初期の仏教が、この他人への救済も説く「大乗」の教えに移行することは、ある意味必然と言うべきでしょう。なぜならこの世界で生きている限り、どうしても他人と関わらざるを得ない。自己の幸福を追求していけば、必然的に他者の幸福も無視することができないからです。釈迦自身が後に人々への慈悲を重んじるようになったのもそのためです。ただし人々を救済するためには、まず自分が覚らなければなりません。そのためにはどうしても修行(勉強)が必要です。人間は正しい智慧(世界を見渡す能力=科学)を身に着けて初めて、人を救済できるのですから。(補足5)

(補足5) この自分よりも他者の幸せを願う。即ち利他主義でよく誤った考えを持たれる場合があります。即ちこの利他主義を実践する前には、当然自分の幸せを第一に考える利己主義的な考え方があるはずです。自分さえ幸福になれればよい。他人なんか関係ない。この自分第一主義のもと徹底的に自己の幸福を追求した後に、人間は初めて他者の幸福も併せて考えなればならないというスタンスに移行できるのです。それなくしていきなり利他主義を実践する。つまり自分の幸福を第一にせず、「世のため人のため」に精を出す者は、恐らく人もそして自分も幸福にできないでしょう。つまり、まずは自分の幸せを考えるのです。もちろん、それは財や名誉を求める等下らない欲望を満たすことではありませんよ。

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